皆さんの神様のイメージは「恐ろしい神」でしょうか?「優しい神」でしょうか?
日本には八百万の神という言葉があり、ある人は、基本的な性格として「善と悪」の二面性をもつ「二重人格者」であるといっていました。
怖い側面を体現するのがいわゆる「荒ぶる神」で、人間に対してその神威を示すときに暴力的な形がとられ、これが「祟り」と呼ばれるものの正体だというのです。
聖書の神に対しても、旧約は恐ろしい神で、新約は優しい神というイメージを持つ人もいます。
ちゃんと旧約と新約を読めば、神は同じであることがわかりますが、確かに旧約聖書では恐ろしいというか、聖なる神のイメージが強いです。
モーセはある時、神の声を聞きます。しかし、神は近づくなと言いました。
神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
聖書(出エジプト記3:5)
それは、神が聖なるお方であり、罪をもった人間とは一緒にいることができないからです。
部屋に電気をつけた瞬間、暗闇がなくなるように、神の「栄光」は全ての罪や悪を超越します。
また、太陽を肉眼で見ることのできないように、人間が神の栄光を直視することは不可能です。
セラフィムという天使も顔を覆い隠すほど眩い光と言えます。
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
聖書(出エジプト記33:20)
これは後に神がモーセに語った言葉です。
神に出会った預言者たちも同じように、神の聖なる栄光の前で死を覚悟しました。
預言者イザヤも、
私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」
聖書(イザヤ書6:5)
預言者エゼキエルもひれ伏しました。
その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに主の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。
聖書(エゼキエル書1:28)
最近は、家の隣に誰が住んでいるか知らないことも多く、近くにいるのに、実はとっても遠い存在という
聖なる神に近づけない存在であるなら、私たちは一生、神の顔を避けて生きなければいけないのでしょうか?
そんなことはありません。
神は、栄光を捨て、この地上にこられたからです。人の姿をとって。
わかりますよね?
それが、2000年前のイエス・キリストです。
栄光を消して「お前、ただの人間じゃないか!」と人間に言われるリスクを冒してまで、私たちに近づいてくださったのです。
6キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。
聖書(ピリピ書2:6-8リビングバイブル訳)
7かえって、その偉大な力と栄光を捨てて奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。
8そればかりか、さらに自分を低くし、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれたのです。
神が人として十字架にかかったことで聖なる神と罪人である私たちの間の壁はなくなり、私たちは大胆に神に近づくことができるようになりました。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
聖書(ヘブル書4:16)
これが、十字架の意味。福音の力です。
神様はモーセに「ここに近づいてはならない」と境界線をグッと引きました。
本来、私たち人間には罪があるので、聖なる神に近づくことなどできませんでした。
大祭司であっても年に一度だけ、至聖所に入ることが許されていたほどです。
しかし、十字架によって、私たちの全ての罪は赦され、キリストの血によって、私たちはきよめられたのです。
今日、十字架の恵みを感謝し、大胆に神に祈りを持って近づきましょう。