多くの加害者の中には、「自分がうまくいっていないのは〇〇のせいだ」という被害者意識がみられるといわれています。
自分が理不尽な目にあった時、なぜ自分だけがと感じ、人に対して復讐心、社会への怒りへと変わっていきます。
聖書に出てくるパリサイ人も、イエス・キリストに対する被害者意識を持っていました。
それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
聖書(ヨハネ 12:19)
当時のユダヤ教の指導者であるパリサイ人たちは、自分たちの計画が「何一つうまくいっていない」のは、「あの人」つまり、イエス様のせいだと主張しているのです。
彼らの計画とは、なんとイエスを殺すことでした。
つまり、パリサイ人こそ加害者なのですが、自身は被害者意識でいます。
大ぜいの民衆がイエス様に従うので、彼らは、勝手に「まるで自分が否定されたように」感じていたのです。
私たちも、この「被害者意識」を持ちがちです。
自分のプライドが少しでも傷つけられたと感じると、自分を守るために、無意識に「〇〇のせいだ」と言ってはいないでしょうか?
「自分がこんなにしんどいのは、夫のせいだ。環境のせいだ。社会のせいだ。あの上司のせいだ。教会のせいだ」と。
最終的に、被害者意識にまみれ、自己防衛的、批判的、攻撃的がエスカレートしたパリサイ人たちは、イエス様を十字架につけて殺します。
「俺らの人生が狂ったのは、イエス、お前のせいだ!」と。
皮肉にも、彼らは、「神のせいだ」と神に対して怒りをぶちまけているのです。
怒りをぶつけられたイエス様はどのように反応したでしょうか?
「なんで私が理不尽な理由で十字架にかかって死ななければならないんだ!」と被害者意識は一切ありません。
むしろ、十字架上で「私が彼らの罪を背負います。父よ、彼らをお許しください」と私たちの被害者意識から来る罪の行為をまとめて受け入れてくれました。
私たちは被害者意識を持ってしまうことがあるでしょう。
そんなときにこそ、十字架上のイエスのところに行きましょう。
たとえ、神に怒りをぶつけたとしても、「あなたの気持ちわかるよ」と言ってくれるイエス様を見るなら、
「私こそが他の人、いやあなたを怒りで十字架につけた加害者です。お赦しください」という祈りが生まれるのです。
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