旧約聖書のヨブ記は、ヨブが、理由もなく苦しみに会うところからスタートします。
ヨブは4人の友人に激しく責められます。
「あなたが正しいならこんな苦難は起こらない」と。
ヨブも反論します。
「苦難の原因は私ではない」
この言葉には、「私は悪くない。こんなことを起こした神が悪い」という怒りが隠されています。
私たちも「なぜ、こんなことが起こるんですか?」と神に対して怒りをぶつけてしまう時があります。
聖書は、原因は神にはないけれども、神は私たちを弁護してくださると言っています。
23 もし彼のそばに、一人の御使いが、千人に一人の仲介者がいて、その方が彼に代わって 彼が誠実であることを告げてくれるなら、
聖書(ヨブ記33:23-24)
24 神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、滅びの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を見出した」と。
ヨブ記の最後で、神様ご自身が仲裁に入られます。
ヨブも友達も神に叱責されます。
神の前で、全く正しく、非難される罪のない人は1人もいないからです。
私たちの人生で起こる苦難も、結局のところ、私たちの不完全さから生じる部分は少なからずあるはずです。
でも、「お前が悪い」と言われたら、やるせないですよね。
この苦しみはどこに向ければいいのでしょうか?
十字架の上のイエス・キリストに全部、吐き出すことができます。
イエスキリストが、私たちの不完全さや落ち度をかばってくれるのです。
新約聖書に、先ほど読んだ箇所とそっくりな箇所があります。
5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
聖書(1テモテ2:5-6)
6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
ヨブ記では「身代金」、テモテでは「贖いの代価」とありますが、同じ意味です。
私たちの不完全さや、失敗、過失をすべて、十字架で神ご自身のいのちを持って、償ったということです。
なので、誰も私たちの落ち度を責めることはできません。
人生の苦難で、苦しんでいる私たちをイエスキリストは、私たちをかわいそうに思い、かばってくれるのです。