誰もが人生の中で一度は「俺ってなんでもできる!」と思う時があります。
社会人になってからかもしれませんし、怖いものがなかった学生の時だったかもしれません。
少なくても赤ちゃんの時は、ある意味無敵でした。
しかし、誰もが自分の弱さや限界を感じるようになるでしょう。
限界を感じることで謙遜になるのなら、それは悪いことではありません。
聖書は、神に大きく用いられたモーセは謙遜な人であったと言っています。
モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。
聖書(民数記12:3 )
柔和とは、物腰がおっとりしている人という意味ではなく、謙遜な人であるということです。
謙遜なモーセは、決して軟弱であったり、弱音を吐いたりするような人物ではありませんでした。
もし、モーセが軟弱でいつも弱音を吐いていたとするなら、出エジプト記に書かれているような英雄的行為を実行することは不可能だったでしょう。
彼は、奴隷となっていた200万人前後のイスラエル人たちをエジプトから連れ出し、その後、40年間も指導しました。
しかも、新約聖書にこのようにあります。
モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。
聖書(使徒7:22)
彼は天下のエジプトの王子として最高の教育を受け、読み書き計算はもちろん、天文学、地学、戦術等にも通じていたに違いありません。
しかし、今日考えたいことは、このスーパーエリートのモーセが、どのように謙遜になったのか?ということです。
生まれつきでしょうか?
そんなことはありません。
ヒントは、王子としての40年間と、出エジプトの40年間の間の空白の40年です。
実は、出エジプトをしたとき、モーセは80歳のおじいちゃんでした。
モーセは、その前の40歳から80歳までを、荒野で過ごしていたのです。
彼は40歳の時に、エジプトの王子として大きな失敗を犯してしまい、逃げるように、荒野に隠れたのです。
その経験が、彼を謙遜にしたのです。
王子としての英才教育と、全てを持っている「特別な存在」から、人から逃げないといけない何もない「普通の存在」へと変わりました。
神様に大きく用いられても傲慢になったり、勘違いしない器になるには、「特別な存在」というセルフイメージが逆に邪魔になる場合があるのです。
神様が用いるのは「特別な人間」ではなく、普通の人間を用いる神が「特別」なのです。
私たちはどうでしょう?
無意識で作り上げられたこのセルフイメージが神様に用いられることを邪魔しているなら、人生の荒野を通ることも祝福です。
だから、「できない自分」「弱くて脆い自分」「情けない自分」を見た時に、そのまま受け入れ、特別な神に目を向けるのです。
神を見上げるとき、私たちは本当の意味で「謙遜」になることができるのです。