日本では、褒められた時や何かを達成した時は、 「いえいえ、私なんて」と自分を低く表現する方が、謙遜な人だと思われます。
しかし、神様が言っていることに対してまで、否定する姿は謙遜ではありません。
聖書に出てくるモーセは神様の言葉を何度も拒否しました。
10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
聖書(出エジプト3:10-11)
11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
神様が、モーセをエジプトのファラオに遣わし、当時奴隷だったイスラエルの民を出エジプトさせると言いました。
しかし、モーセの焦点は神の言葉ではなく、その働きに見合わないように思える「自分」でした。
「いえいえ、私なんて」
一瞬、これは謙遜に見えます。
しかし、これは隠れた自己否定からくる「謙遜もどきパターン」です。
ある牧師は、このような反応を「へり下り傲慢」と言い、意外とクリスチャンに多いと言います。
もちろん、自分の罪深さを認め、「私には何もありません」と徹底的にへりくだることは大切です。
しかし、神様が「あなたにこれをして欲しい」と命じられるなら、「いえいえ、神様はそう言われますが、私にはできません」といってはいけません。
それは、「神様、あなたは間違っています」と言っているのと同じだからです。
「神様が(自分がどんなに不足していると思っていても)あなたに任せた」なら、間違いはありません。
確かに私たちは失敗するかもしれません。やり遂げる力がないかもしれません。
しかし、神様が助けてくださることを信じるのが信仰です。
この後も、モーセは自己否定し続けます。
・誰も私の言葉なんか聞かない(出エジプト4:1)
・自分は口下手(出エジプト4:10)
・他の人に頼んでください(出エジプト4:13)
40年前にエジプトの王子として、大きな失敗をして、荒野に逃げたことがトラウマになっているのでしょう。
しかし、神様は根気よくモーセを励まされます。
私たちはどうでしょう?
「私なんて能力がない」「私なんてどうせ失敗する」「私なんて誰も求めていない」
その言葉は他でもない、あなたの言葉、自己否定です。
神様は「そんなあなたにやってもらいたい」と言われるのです。
どう答えれば良いでしょうか?
「こんな私ですが、神様が言われるなら役に立ちたいです」とそのままの自分で神様の働きに進むことです。