はじめに
前回から、「Faith is a journey」信仰は旅であるというシリーズで、信仰について学んでいます。
信仰生活とは、旅であるといえるからです。信仰生活が右肩上がりだと思う人は、落ち込んだ時に挫折します。ある時は、一時的に信仰から離れ、後退する時もある。でも、旅なら、それも、遠回りと言えるのです。信仰生活にも、旅と同じように、始まりがあります。
誰も生まれた時からイエス様を信じているわけではありません。私のように生まれた時から母親がクリスチャンであったとしても、いつかは自分の意思で、「信じるか、信じないか」を決める時が来るのです。イエス様を信じるという決断は、このお方に人生を明け渡し「仕える」という決断であるべきです。
前回のメッセージでは、私たちの信仰の土台は、私たち自身ではなく、「神の真実さ」にあると言うことをお話ししました。しかし、今日の、「決断」と言うテーマも信仰の基本です。今日は、「信仰は旅である②旅の始まり- 決断」と言うタイトルで、ヨシュア記から見ていきましょう。
神に仕えるとは
今日の聖書箇所は、イスラエルの民はモーセに導かれた荒野での生活を終え、ついにヨルダン川を渡って神が約束されたカナンの地に入った後の話です。モーセの後継者ヨシュアが、年老いて、遺言として、イスラエルの民に、一つの決断を迫る箇所です。今日の箇所から三つのことが学べます。一つ目のポイントは、私たちは誰に仕えるか?と言うことです。
①「主にだけ」仕える
14 今、 あなたがたは【主】を恐れ、 誠実と真実をもって主に仕えなさい。 あなたがたの先祖たちが川の向こう、 およびエジプトで仕えた神々を除き去り、 【主】に仕えなさい。
聖書(ヨシュア 記 24:14-15)
15 もしも【主】に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、 川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、 今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、 あなたがたが仕えようと思うものを、 どれでも、きょう選ぶがよい。 私と私の家とは、 【主】に仕える。 」
14-15節は、イスラエルの指導者、ヨシュアの決意表明です。「仕える」という言葉は、本章だけで18回も使われています。14-15節を見ると、「神」に仕えるか、「神以外の他の何か」に仕えるか、ということが大きなテーマであることがわかります。24章2節では、アブラハムの父テラがメソポタミヤで、月の神を始めとする神々に仕えたことが書いています。14節では、イスラエルの先祖たちがエジプトで、太陽の神などの神々に仕えたことが書いています。そして、15節で、現在のカナンの地のエモリ人たちが仕える神々のことが出てきます。
ここで考えなくてはいけないことは、信仰の民、イスラエルの行く先々では、常に、偶像がはびこり、誘惑があったということです。約束の地、カナンに入った今でさえも、偶像は無くなりません。むしろ、約束の地で安住を受けた後には、より大きな誘惑が訪れるはずです。
聖書を信じているイスラエルの民が、存在しないはずの異教の神々や偶像に仕えるなんてありえない。私たちはそう思うでしょう。しかし、私たちの実生活においても、真の神ではなく、偶像に仕えてしまう誘惑は小さくありません。
モーセの十戒の一番最初の命令はこうです。
あなたには、 わたしのほかに、 ほかの神々があってはならない。
聖書(出エジプト記 20:3)
そして、イエス様はこう言われました。
だれも、 ふたりの主人に仕えることはできません。 一方を憎んで他方を愛したり、 一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。 あなたがたは、 神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
聖書(マタイの福音書 6:24)
お金自体は良いものですが、お金は偶像になりえます。お金を神と人を愛するために用いる人と、お金に支配されている人がいるのです。お金以外の物も、偶像になる可能性があります。仕事、ステータス、権力、成功。時間、スキルや賜物。結婚、家族、子供。友達。仏壇とか、宗教だけが偶像なのではありません。サタンは姿を変え、形を変え、私たちの信仰を妥協させ、混合させるからです。
私たちの人生の優先順位は神様が一番であるように、本気で一番になるように生活を変えなくてはいけません。
ここで、私たちが自分自身に問いたい質問があります。誰に、私たちは仕えているのでしょうか?神様でしょうか?それとも他のものでしょうか?神にも偶像にも仕えることはできないのです。 私たちは、「主にだけ」仕えなければいけません。
一つ目のポイントの私たちは誰に仕えるか?と言うことの次に大切なことは、私たちはなぜ仕えるのか?と言う動機です。
② 恵みに答え仕える
すると、 民は答えて言った。 「私たちが【主】を捨てて、 ほかの神々に仕えるなど、 絶対にそんなことはありません。
聖書(ヨシュア 記 24:16)
ヨシュアのことばを聞いて、民は神だけに仕えることを決断します。17節のヘブル語原文の文頭には、原因を表す接続詞キー(なぜなら、Because)が置かれています。なので、17~18節は、イスラエルの民がなぜ、イスラエルの神にだけ仕えるのかと動機が書かれています。
17 私たちの神、 【主】は、 私たちと私たちの先祖たちを、 エジプトの地、 奴隷の家から導き上られた方、 私たちの目の前で、 あの数々の大きなしるしを行い、 私たちの行くすべての道で、 私たちの通ったすべての民の中で、 私たちを守られた方だからです。
聖書(ヨシュア 記 24:17-18)
18 【主】はまた、 すべての民、 この地に住んでいたエモリ人をも、 私たちの前から追い払われました。 私たちもまた、 【主】に仕えます。 主が私たちの神だからです。 」
神様は、奇蹟によってエジプトの奴隷生活から解放され、荒野でもカナンの地でも守り導いてくださいました。その素晴らしい恵みに応えたい!それが動機です。この動機は正しいのでしょうか?神様がしてくれたから、私たちもお返しするんだ。ギブアンドテイクのように思えます。しかし、この動機は間違ってはいません。今回の聖書箇所の最初の14-15節でのヨシュアの「私と私の家とは主に仕える」と告白の前の箇所を見ると、ヨシュアがなぜそのような決断をするのかの理由が書かれています。1節~13節を見てください。要約するとこうです。
神様は、テラでアブラハムを召しカナンの全土を歩かせ(2-4節)、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出し(5-7節)、荒野でもカナンの地でも守り導いてくださいました(8-13節)。
神様がしてくださった救済の歴史を振り返り、民と結ばれた約束を、長い年月をかけて成就された神の真実さを振り返っているのです。前回のメッセージを思い出してください。私たちの信仰の土台は神の真実さです。考えて見ましょう。なぜ、私たちは神に仕えるのでしょう?私たちが神様に仕える動機は何でしょうか?
私たちが神様に仕える動機は、神様が私たちにしてくださったこと、してくださっている恵みに応えたい!と内側からあふれ出るものであるべきです。
私たちの神、 【主】は、 私たちと私たちの先祖たちを、 エジプトの地、 奴隷の家から導き上られた方、 私たちの目の前で、 あの数々の大きなしるしを行い、 私たちの行くすべての道で、 私たちの通ったすべての民の中で、 私たちを守られた方だからです。
聖書(ヨシュア記 24:17)
イスラエルの民は、神様が実生活で助けてくれた!ということを「目で見た」、つまり、体験したのです。神様の恵みを体験するとは、紅海を分けるような奇跡だけではありません。エジプトで奴隷から解放されたように、主は現実の罪の束縛や苦しみから解放されます。主が毎朝、天からマナを降らせて荒野で生き延びることができたように、主は私たちの日用の糧も満たしてくださいます。
2 わがたましいよ。 【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
聖書(詩篇 103:2-5)
3 主は、 あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、 恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
5 あなたの一生を良いもので満たされる。
「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 」この賛美の通りしているでしょうか?神がしてくださった恵みを受け取らなければ、私たちは神に仕えることもできないのです。なぜ、私たちは神に仕えるのでしょう? 私たちは、「恵みに答え」仕えるのです。
③ 恵みに答え、主にだけ仕えることを、決断する
このヨシュア記24章全体は、ヨシュアは、モーセを通して、神がイスラエルの民と結ばれたシナイ契約の更新です。契約ということを考えてください。契約を結ぶとは、何が必要でしょう?決断です。結ぶか、結ばないかです。
ヨシュアは、レビ記26章、申命記28章で語られた契約関係をもう一度、民に問うのです。神に仕えるなら、祝福。他の神々に仕えるなら、呪い。
わたしはあなたがたの間を歩もう。 わたしはあなたがたの神となり、 あなたがたはわたしの民となる。
聖書(レビ記 26:12)
あなたの先祖は、神に仕えると契約を結びました。イスラエルの民よ。あなた方はどうですか?
21 それで民はヨシュアに言った。 「いいえ。 私たちは【主】に仕えます。 」
聖書(ヨシュア記 24:21-24)
22 それでヨシュアは民に言った。 「あなたがたは、 【主】を選んで、 主に仕えるとい
う、 自分自身の証人である。 」すると彼らは、 「私たちは証人です」と言った。
23 「今、 あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、 イスラエルの神、 【主】に心
を傾けなさい。 」
22節のイスラエルが自らの証人になるというのは、もし自分たちが主に忠誠しなかった場合には、契約関係に基づくのろいを受けることを決心するということです。決断の裏には、必ず責任もあります。
ところで、ヨシュアは19節で、なぜ「あなたたちは主に仕えることはできない」ときつい言葉で返したのでしょうか?それは、彼らの決断にどれだけの真実と意志があるかを確かめるためです。実際、イスラエルの民は3度も、「神に仕えます」と宣言しています。1度目は16節、2度目は21節、そして、24節で、「私たちは私たちの神、【主】に仕え、 主の御声に聞き従います。 」と断言します。
民はヨシュアに言った。 「私たちは私たちの神、 【主】に仕え、 主の御声に聞き従います。 」
聖書(ヨシュア 記 24:24)
イエス様は、ペテロに3度も同じ質問をし、彼の決断を確かめられました。
15 彼らが食事を済ませたとき、 イエスはシモン・ペテロに言われた。 「ヨハネの子シモン。 あなたは、 この人たち以上に、 わたしを愛しますか。 」ペテロはイエスに言った。 「はい。 主よ。 私があなたを愛することは、 あなたがご存じです。 」イエスは彼に言われた。 「わたしの小羊を飼いなさい。 」
聖書(ヨハネの福音書 21:15-17)
16 イエスは再び彼に言われた。 「ヨハネの子シモン。 あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。 「はい。 主よ。 私があなたを愛することは、 あなたがご存じです。 」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。 」
17 イエスは三度ペテロに言われた。 「ヨハネの子シモン。 あなたはわたしを愛しますか。 」ペテロは、 イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、 心を痛めてイエスに言った。 「主よ。 あなたはいっさいのことをご存じです。 あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。 」イエスは彼に言われた。 「わたしの羊を飼いなさい。
どのように、私たちは神に仕えるのでしょう? それは私たちの決断によって、神に仕えるのです。
神に仕えることを決断するには、他の物を手放すことが必要な時があります。このことをよく表している2つの出来事があります。1845年、イギリスの探検家ジョン·フランクリンは、北西の航路を探す探検隊を率いていました。船が氷で動けなくなったので、一行は氷の上を歩き始めました。しかし、残念なことに彼らは次の目的地にたどり着くことができず、行方不明になりました。何年か後、彼らの遺体は高級ぶどう酒、高級磁器ボーンチャイナ、クリスタルの杯などがたくさんつまった荷物の間から発見されました。死の間際までも華やかな生活をあきらめられなかったことが、彼らに死をもたらしたのです。生きるためには持っている荷物を手放し、早くそこから移動しなければなりませんでしたが、彼らはその決断をしなかったのです。
もう一つの出来事は、有名なタイタニック号の沈没です。1912年、タイタニック号が北大西洋の冷たい海の中に沈没したとき、船の破片につかまった人たちがいました。救助隊員たちが彼らに救命浮輪と太いロープを投げてこう言ったそうです。「つかんでいる物を離してこれにつかまってください。ごみは捨てて救命ロープをつかまなければなりません。」ところが残念なことにたくさんの人たちが、船の破片を手放すことができず、死に至りました。恐れなのか、理由はあるでしょうが、結局彼らは、船の破片を手放し、ロープに捕まるという決断をしなかったのです。
この2つの歴史的な出来事から学べることは、何かを手放すのも、その人の決断だということです。そして、周りの人が、手放したらいいのに!と思っても、その人が決断しない限り、状況は変わりません。
「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざがあります。イギリスのことわざで、英語表記では「You can take a horse to the water,but you canʼt make him drink.」と書きます。馬が水を飲むかどうかは馬次第なので、人は他人に対して機会を与えることはできるが、それを実行するかどうかは本人の決断次第であるという意味です。
誰も私たちに強制はしません。あなたの家族も、友達も、牧師も、たとえ神様であっても、あなたに無理やり「神に仕える」ことを決断させることはできません。
ダニエルは、異国バビロンの地で信仰を妥協させる様々な偶像に囲まれていました。しかし、彼は固くたっていました。なぜでしょうか?
ダニエルは、 王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、 身を汚さないようにさせてくれ、 と宦官の長に願った。
聖書(ダニエル書 1:8)
彼は、心に定めたからです。彼は、自分の意思で決断したのです。たとえ、自分の意思に反してバビロンに連れてこられても、神様のせいにはしませんでした。バビロンで3年も偶像礼拝の訓練を受けて、影響を受けていたとしても、環境のせいにはしませんでした。「酒を飲み、偶像に捧げられた肉を食べてもしょうがない、王の命令だから…」と妥協できたのにもかかわらず、「私はイスラエルの神に仕える。身を汚さず、神の命令を固く守るんだ」と、彼は決断したのです。
まとめ
三つの質問をもう一度、自分自身に問いましょう。誰に、私たちは仕えているのでしょうか?私たちは、「主にだけ」仕えなければいけません。なぜ、私たちは主に仕えるのでしょう?私たちは、「恵みに答え」仕えるのです。どのように、私たちは主に仕えるのでしょう?私たちは、私たちの決断によって、主に仕えるのです。
イエス様を信じると言う一歩を踏み出したけれども、生涯をかけて仕えると言う決断ができていないならば、今日決断してください。人の目は関係ありません。 神様も人もあなたを強制しません。私たちが決断するかどうかです。 最後にヨシュア記 24章14-15節をお読みします。
14 今、 あなたがたは【主】を恐れ、 誠実と真実をもって主に仕えなさい。 あなたがたの先祖たちが川の向こう、 およびエジプトで仕えた神々を除き去り、 【主】に仕えなさい。
聖書(ヨシュア 記 24:14-15)
15 もしも【主】に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、 川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、 今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、 あなたがたが仕えようと思うものを、 どれでも、 きょう選ぶがよい。 私と私の家とは、 【主】に仕える。 」
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