【人生を変える聖書のメッセージ#11】信仰は旅である ③ 旅人であり寄留者 ペテロの手紙第一 2章9‐12節

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はじめに

韓国での三年間の学びを終えて、いよいよ日本に戻るという時に、一番残念だったのは、家具や持ち物の大半を置いていかなくてはいけなかったということです。韓国に着き、神様の恵みで、中古で買ったり、もらったり、ソファ、テレビ、勉強机と椅子、本棚が与えられました。ベッドに関しては、新婚一年目はセミダブルのベッドに二人で寝ていたので、どうしてもダブルのベッドが欲しく、新品を買いました。

しかし、残念なことに、その全てを札幌に持って帰ることはできなかったのです。郵送するには大きすぎますし、電化製品は電圧もプラグも違いました。結局、知り合いの宣教師にその部屋にある全ての家具をあげました。韓国で尊い訓練と恵の経験は持って帰りましたが、二つのスーツケースで韓国にいき、結局二つのスーツケースで帰ってきました。きっと、宣教師とは、そのような経験をするのだと思います。しかし、全てのクリスチャンは、ある意味では、このような経験をします。

私たちはこの世に何一つ持ってこなかったし、また何一つ持って出ることもありません。」

聖書(テモテの手紙第一 6:7)


とある通りです。なぜなら、今日の箇所である通り、 私たちはこの世においては「旅人であり寄留者」だからです。 今日は、「Faith is a journey」信仰は旅であるというシリーズの第3回目。「旅人であり寄留者」と言うタイトルで、ペテロの手紙第一2章9-12節から、共に主の語りかけを聞いて参りましょう。

私たちは神様に遣わされている

このペテロの手紙の差出人はイエスの十二弟子のペテロであり、受取人は小アジヤに散っている聖徒たちです。

イエス・キリストの使徒ペテロから、 ポント、 ガラテヤ、 カパドキヤ、 アジヤ、 ビテニヤに散って寄留している、 選ばれた人々、 すなわち、

聖書(ペテロの手紙第一 1:1)


彼らがポント、 ガラテヤ、 カパドキヤ、 アジヤ、 ビテニヤで寄留者のように生活するようになったのは、ローマ帝国の激しい迫害があったからです。この寄留しているという言葉は、今日の箇所のメイン箇所であるペテロの手紙第一2章11節にも出てきます。

愛する者たちよ。 あなたがたにお勧めします。 旅人であり寄留者であるあなたがたは、 たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

聖書(ペテロの手紙第一 2章11節)

「旅人」と訳された言葉の原語は、「ある国の市民権や特権のない居住者」そして、「寄留者」とは、「見知らぬ場所に一時的に在留する者、同族から離れて暮らす者」という意味で使われていました。

ローマ帝国は、人間が権力のために奔走し、淫乱に満ちており、クリスチャンに対する悪意に満ちたうわさが絶えませんでした。つまり、この散らされたクリスチャン達は、国の保護を受けるどころか、迫害され、浮いた存在であったということです。

聖書が意図する、この「旅人であり寄留者」という言葉は、旅行者とか一時的に国を離れているという軽い意味ではなさそうです。真意を理解するヒントは、少し前にあります。9-10節を見てみましょう。

9 しかし、 あなたがたは、 選ばれた種族、 王である祭司、 聖なる国民、 神の所有とされた民です。 それは、 あなたがたを、 やみの中から、 ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、 あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
10 あなたがたは、 以前は神の民ではなかったのに、 今は神の民であり、 以前はあわれみを受けない者であったのに、 今はあわれみを受けた者です。

聖書(ペテロの手紙第一 2:9-10)


この箇所は、私たちのアイデンティティを表す箇所です。まとめると、10節の通り、「私たちは神の国の民」。

ここで疑問が生まれます。なぜ、神の民であることが語られ、いきなり、旅人であり寄留者という言葉が出てくるのでしょうか?なぜ、神の民というアイデンティティと、旅人であり寄留者という二つのアイデンティティが一連の流れの中で語られたのでしょうか?

それは、 私たちは、神の国の民としての使命を持って、この世に派遣されている者だからです。 この意味において、私たちは旅人であり寄留者なのです。この意識はとても大切です。私たちはこの世に生を受けて、この世に生きています。しかし、私たちの国籍は天にあります。

そして、旅人・寄留者としてこの世で生きるために重要なのが、今日のポイントでありますが、派遣意識と、使命感です。派遣意識と、使命感がなければ、ただの観光目的の旅行者です。もしくは、一応クリスチャンだけど、生き方においては、この世の人と全く変わらないかもしれません。それでは、派遣意識とはなんでしょう?

① 派遣意識

9 しかし、 あなたがたは、 選ばれた種族、 王である祭司、 聖なる国民、 神の所有とされた民です。 それは、 あなたがたを、 やみの中から、 ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、 あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
10 あなたがたは、 以前は神の民ではなかったのに、 今は神の民であり、 以前はあわれみを受けない者であったのに、 今はあわれみを受けた者です。

聖書(ペテロの手紙第一 2:9-10)


私たちを選んでくださった方は、神様です。そして、私たちは、イエス・キリストの死という代価によって買い取られ、神様のものになりました。その神様は目的を持って、私たちを遣わされたのです。どこに遣わされたと言っているのでしょう?

12 異邦人の中にあって、 りっぱにふるまいなさい。 そうすれば、 彼らは、 何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、 あなたがたのそのりっぱな行いを見て、 おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

聖書(ペテロの手紙第一 2:12)


神の国の民として、異邦人の中に遣わされているのです。異邦人とは、神様を知らず、恐れない者たちです。つまり、神様が、私たちを神の国の民として、神様を恐れない人々の中に、この世に派遣された。この意識はとても大切です。

イエス様もこの世では、旅人として寄留者として過ごされました。

ことばは人となって、 私たちの間に住まわれた。 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。 この方は恵みとまことに満ちておられた。

聖書(ヨハネの福音書 1:14)


世を去って父のみもとにいく

さて、 過越の祭りの前に、 この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、 世にいる自分のものを愛されたイエスは、 その愛を残るところなく示された。

聖書(ヨハネの福音書13:1)


遣わされた意識

わたしを愛さない人は、 わたしのことばを守りません。 あなたがたが聞いていることばは、 わたしのものではなく、 わたしを遣わした父のことばなのです。

聖書(ヨハネの福音書 14:24)

『わたしは去って行き、 また、 あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、 あなたがたは聞きました。 あなたがたは、 もしわたしを愛しているなら、 わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。 父はわたしよりも偉大な方だからです。

聖書(ヨハネの福音書14:28)


父から出て世に来た。

わたしは父から出て、 世に来ました。 もう一度、 わたしは世を去って父のみもとに行きます。 」

聖書(ヨハネの福音書16:28)

イエス様には世に派遣されたという派遣意識があったということです。そして、イエス様は、主として、模範として、弟子を同じように派遣されました。マタイ10章にはイエス様が弟子達を派遣する場面が書かれています。

イエスは十二弟子を呼び寄せて、 汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。 霊どもを追い出し、 あらゆる病気、 あらゆるわずらいをいやすためであった。

聖書(マタイの福音書 10:1)

イエスは、 この十二人を遣わし、 そのとき彼らにこう命じられた。 「異邦人の道に行ってはいけません。 サマリヤ人の町に入ってはいけません。

聖書(マタイの福音書10:5)

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

聖書(マタイの福音書10:6)

行って、 『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

聖書(マタイの福音書 10:7)

病人をいやし、 死人を生き返らせ、 ツァラアトに冒された者をきよめ、 悪霊を追い出しなさい。 あなたがたは、 ただで受けたのだから、 ただで与えなさい。

聖書(マタイの福音書10:8)


マタイの福音書10章7節には、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい、そして、8節には、神の国が近づいたことを実際にわざによって現しなさいという命令が書かれています。これが派遣意識です。 私たちは神の国から派遣されているのです。 

イスラエルから遣わされた宣教師?

私が牧師按手を受けた時、導かれたときの話です。銀行を退職し、2011年3月にBFPエルサレムフードバンクでボランティアをしていた時、東日本大震災が起こりました。もう日本に戻るのが二週間くらいのある晩、有志のボランティアたちが集まり、食事をしたあと、賛美をして交わりました。その時の臨在は今でも忘れられないくらい、暖かく濃いものでした。その時、ある人が急に、ここにいる日本人のために祈ろう。と言い出しました。そして、ある人が、結樹のために祈りたいと、オイルを私の額につけて、祈ってくれました。御言葉や預言が語られ、大いに励まされたのですが、その時、私は主に語られたことがありました。もともと、宣教師というビジョンがありましたが、具体的な国は示されず、日本のリバイバルに重荷がありました。「日本人なのに、日本宣教師?どうもしっくりこないな。牧師?なら、なんで神様は私に宣教師という思いをくれたんだ?」
でも、オイルを塗って祈られた時、「そうか!俺は、エルサレムで油注がれ、エルサレムから日本に遣わされる宣教師なんだ!」という思いをもらいました。

この派遣意識は私が日本で牧会する上での土台です。それが韓国のオリュン教会だろうと、私はエルサレムから派遣された日本宣教師でした。この派遣意識があるから、試練の時も、燃え尽きそうな時も、私は使命感を持って立ち上がることができています。

次に大切なのは、使命感です。

② 使命感

何のために派遣されたのか?それが使命であり、ゴールです。

しかし、 あなたがたは、 選ばれた種族、 王である祭司、 聖なる国民、 神の所有とされた民です。 それは、 あなたがたを、 やみの中から、 ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、 あなたがたが宣べ伝えるためなのです。私たちの使命は、イエス・キリストのすばらしいみわざを、 宣べ伝えるためです。

聖書(ペテロの手紙第一 2:9)


言い換えれば、 この世にあって、神の国を生き方によって証していくことです。 神の国は、いわゆる、死後に行く天国だけではないのです。そして、この世にあって、神の国に生きていくことは、世を捨てて修道院に入りなさい、世から離れなさいということではありません。この世の只中で、神の支配、神の愛、神の国そのものを証していくことです。

ターミネーター2という映画をご存知でしょうか?シュワちゃん演じるターミネーターは、未来から送り込まれたサイボーグです。彼には、使命がありました。それは、過去のジョン・コナーを守り、人間とロボットの戦争が起こることを食い止めるためです。

派遣には必ず使命があるということです。国でいうならば、私たちはいわば、神の国から派遣された神の国の大使です。全世界に日本大使館があります。海外の日本大使館は、日本から派遣され、日本政府から委ねられた使命を果たすために熱心に働きます。派遣には必ず使命があるのです。

では、私たちが神の国の大使として、するべきことは何でしょう?

11 愛する者たちよ。 あなたがたにお勧めします。 旅人であり寄留者であるあなたがたは、 たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
12 異邦人の中にあって、 りっぱにふるまいなさい。 そうすれば、 彼らは、 何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、 あなたがたのそのりっぱな行いを見て、 おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

聖書(ペテロの手紙第一 2:11-12)


11節と、12節に二つのことがあります。
肉の欲を遠ざける
りっぱにふるまう

この世界で、私たちが神の国の民として生活することを妨げるのが、「肉の欲」だと聖書は言っています。肉の欲とは、この世を愛することです。

15 世をも、 世にあるものをも、 愛してはなりません。 もしだれでも世を愛しているなら、 その人のうちに御父を愛する愛はありません。
16 すべての世にあるもの、 すなわち、 肉の欲、 目の欲、 暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、 この世から出たものだからです。
17 世と世の欲は滅び去ります。 しかし、 神のみこころを行う者は、 いつまでもながらえます。

聖書(ヨハネの手紙第一 2:15-17)


ヨハネの福音書3章16節では、イエス様は世を愛されたと言っていて、違うことを言っているように思えますが、イエス様が愛された世は、神様が造られた本来の世、創造物、人間です。そして、愛すなという世は、堕落した罪の世のことです。

りっぱにふるまうとは、直訳では、「あなたがたの生活を良いものとして保ちなさい」という意味です。ペテロの手紙第一2章13節以降で、具体的に書いています。

13 人の立てたすべての制度に、 主のゆえに従いなさい。 それが主権者である王であっても、
14 また、 悪を行う者を罰し、 善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、 そうしなさい。
15 というのは、 善を行って、 愚かな人々の無知の口を封じることは、 神のみこころだからです。
16 あなたがたは自由人として行動しなさい。 その自由を、 悪の口実に用いないで、 神の奴隷として用いなさい。
17 すべての人を敬いなさい。 兄弟たちを愛し、 神を恐れ、 王を尊びなさい。
18 しもべたちよ。 尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。 善良で優しい主人に対してだけでなく、 横暴な主人に対しても従いなさい。
19 人がもし、 不当な苦しみを受けながらも、 神の前における良心のゆえに、 悲しみをこらえるなら、 それは喜ばれることです。
20 罪を犯したために打ちたたかれて、 それを耐え忍んだからといって、 何の誉れになるでしょう。 けれども、 善を行っていて苦しみを受け、 それを耐え忍ぶとしたら、 それは、 神に喜ばれることです。
21 あなたがたが召されたのは、 実にそのためです。 キリストも、 あなたがたのために苦しみを受け、 その足跡に従うようにと、 あなたがたに模範を残されました。

聖書(ペテロの手紙第一 2:13-21)

最後は、キリストに習いなさいとも言っています。これらは、神の国の民の生き方です。生き方そのものです。

前に学生が集まるキャンプでメッセージをしたとき、「神の国に生きる者として、どのようにこの世で生きていくか?」これが、学生たちが一番チャレンジを受けていたところでした。聖書で語られる神の国と、現実生活にギャップがあった人が多かったからです。ある学生がこう言いました。「日曜日に、バイトが入った時、しょうがないから、と当たり前のように礼拝を休んでいた。祈ってもいなかった。自分や社会の常識を、神の国の常識よりも優先していた自分に気づいた。」本当に礼拝を優先しているのだろうか?いや、教会にいる時だけでなく、平日の実生活の中で、神の国に生きているのだろうか?大学の飲み会の振る舞いはこれでいいんだろうか?自分のお金や時間の使い方はこれでいいんだろうか?私の生き方は、大学の友達に証になっているのだろうか?これらは、超現実的な話です。

まとめ

現代日本に住む、私たちはどうでしょう。形は違えど、サタンの見えない策略や、霊的な戦いをものすごく感じます。この日本で、私たちは、どのように生きれば良いのでしょうか?

神の国の旅人・寄留者として
私たちは日本には住んでいますが、神の国の国籍を持つものとしては、旅人・寄留者です。
派遣意識と使命感を持って、
神の国の民として、神の国の大使として、派遣意識と、使命感を持って、生きていきましょう。
肉の欲を遠ざけ、りっぱに振る舞う
私たちを世の価値観に同化させ、信仰を妥協させる肉の欲を遠ざけ、世の光、地の塩として、りっぱにふるまいましょう。

家族の中で、地域の中で、職場の中で、私たちが神の国に生き、イエス・キリストの福音の証人となれるように、聖霊様の助けを求めて、遣わされて行きましょう。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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