はじめに
みなさんは今まで遠回りをした経験はありますでしょうか?
主は私に方向感覚の賜物を下さいませんでした。よく道に迷います。しかも、私は一向に道を覚えません。なぜでしょうか?それは、いつもカーナビを使うからです。カーナビがあれば何も考えなくても目的地に最短でたどり着けます。また、すごいのは道を間違えても、すぐに修正してまたそこからの最短ルートを示してくれます。
しかし、困ったことに、私たちの人生にはカーナビはありません。人生の目的地を設定して、その通りに進めば、絶対失敗はしないというようなシステムは、人生には全く通用しないのです。テクノロジーが発達し、GPS、つまり衛生によって、自分がどこにいるのかさえも、正確にわかる時代です。しかし、人生の進むべき方向を見失う人は、少なくありません。私たちの人生にカーナビはありません。しかし、信仰者の車には、道を示すカーナビではなく、道を作られたお方が助手席に乗っているのです。それが私たちの主、イエス・キリストです。目的地で待ってるからカーナビを使って来いと言われるお方ではなく、助手席に座って、案内をし、そして人生の旅の道中で楽しく会話をすることを楽しまれる神さまです。疲れた時は一緒にパーキングエリアで休憩してくれ、万が一事故が起きたら看病してくれる方です。
どんなに時代が変わっても、神とともに歩んでいるかどうかが「信仰の旅」においては最重要ポイントなのです。今日は、「Faith is a journey」信仰は旅であるというシリーズの第5回目。私たちが生まれる4000年以上も前に生きたアブラハムの物語から、信仰の旅における遠回りについて、聖書から見ていきましょう。
アブラハムの信仰
神さまはアブラハムとその子孫を、世界の祝福にするという約束をされ、実際に歴史はそのように動いています。アブラハムの何がすごかったのでしょうか?それは、アブラハムが何か偉大なことを成し遂げたとか、どれだけ素晴らしい人格を持っていたからではありません。彼の信仰です。神様は、アブラハムを一方的に選び、彼に約束を与えます。
1【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、 あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
聖書(創世記 12:1-3)
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。 」
この約束には条件がありました。それは、1節の「あなたの父の家を出て」というところです。アブラハムは、信仰によって、従いました。
アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。 ロトも彼といっしょに出かけた。 アブラムがハランを出たときは、 七十五歳であった。
聖書(創世記 12:4)
こうして、アブラハムの信仰の旅は始まりました。しかし、信仰の旅において、彼が遠回りをするまでに時間は多くかかりませんでした。約束の地であるカナンの地についたアブラハムは、なんとその地を出てエジプトに向かったのです。なぜ、アブラハムはエジプトに行ったのでしょうか?
さて、 この地にはききんがあったので、 アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、 下って行った。 この地のききんは激しかったからである。
聖書(創世記12:10)
アブラムとはアブラハムの昔の名前です。ききんがあったからです。彼は、この決断により、信仰の旅路において、遠回りをすることになります。
遠回り -試練-
私たちが信仰の旅の中で遠回りをしてしまう原因がこれです。試練です。私たちは、私たちの信仰をテストする何かに必ずぶち当たります。「あなたは、どんな時でも神さまに信頼しますか?」というテストが試練です。ほとんどの場合、私たちはパニックになって、自分が安心できる場所に一生懸命逃げようとします。状況によって判断し、あたかもそれが正解だと自分に思い込ませます。でも、神さまは、アブラハムに「エジプトに行きなさい」とは一言も言っていないし、実際に、「あなたの子孫にこの地を与える」と言われた約束の地から離れてしまっています。
信仰の旅において、進むべき方向を示すのは神さまだけです。状況や人の意見は、神さまの命令より優先されることは決してありません。たとえ、状況が最悪であったとしても、神さまが「行け」と言わなければ留まるべきなのです。逆に、「なぜ今?」と思える時でも、神さまが「行け」と言えば行くのです。
アブラハムのこの選択が正しくなかったことは、11節以降を読むと明らかです。彼の選択は、神への信仰ではなく、不安や恐れにかられ、自分を守るためであったということがわかります。
聖書(創世記12:11-13)
11 彼はエジプトに近づき、 そこに入ろうとするとき、 妻のサライに言った。 「聞いておくれ。 あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12 エジプト人は、 あなたを見るようになると、 この女は彼の妻だと言って、 私を殺すが、 あなたは生かしておくだろう。
13 どうか、 私の妹だと言ってくれ。 そうすれば、 あなたのおかげで私にも良くしてくれ、 あなたのおかげで私は生きのびるだろう。 」
アブラハムは、妻サラがあまりにも美しく、夫である自分が彼女を好きになったエジプト人に殺されてしまうと思ったので、サラは妹だと嘘をつきました。結果として、エジプトの王パロ(ファラオ)は、サラを妻とします。それは神さまのご計画に反することだったので、神さまは災害でパロを痛めつけその状況をストップさせました。最終的には、アブラハムはサラが自分の妻であることを正直に告白し、神さまの守りによって無傷でエジプトを後にしたのです。
つまり、アブラハムのエジプト行きは遠回りでした。そこで、彼は自分を守るために嘘をついて妻を売るというとんでもない失敗をしました。考えて見て下さい。妻サラにとっても大きな傷が残ったことでしょう。
どんな時でも、イエス様を信頼し、試練を乗り越えることができれば、それは本当に幸いです。とは行っても、試練に負けてしまうことがあります。試練に負けて、遠回りをし、嘘をつき、妻を売るという失敗してしまったアブラハムのように。しかし、私たちはこのアブラハムのある信仰の行動から学ぶことがあります。
これが今日のポイントです。それは、彼が神さまが示された「もとの道に戻った」ということです。
もとの道に戻った -悔い改め-
1 それで、 アブラムは、 エジプトを出て、 ネゲブに上った。 彼と、 妻のサライと、 すべての所有物と、 ロトもいっしょであった。
聖書(創世記13:1-3)
2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
3 彼はネゲブから旅を続けて、 ベテルまで、 すなわち、 ベテルとアイの間で、 初めに天幕を張った所まで来た。
3節の「初めに」という言葉に注目しましょう。彼は、遠回りして、道を外した後に、もう一度もとの道に戻ってきたのです。これを聖書では「悔い改め」と言います。間違った道に行ってしまい、それを間違いだったと素直に認め、もう一度方向転換することです。ある人は、間違いを認めたくないというプライドが邪魔するかもしれません。ある人は、遠回りしていることに気づかないでもっと道を逸れていくかもしれません。ある人は、失敗したことに失望して、信仰の旅自体を諦めたくなるかもしれません。
でも、重要なことは、もう一度、神さまが示したもとの場所に戻ることです。みなさん、これはとても重要です。箴言の24章16節には、「正しい者は七たび倒れる」と書いています。どんなに強い信仰を持ったクリスチャンでも試練で倒れてしまうことは起こるのです。遠回りしてしまうことはありえるのです。でも、箴言はこう続けます。
「 でも、また起き上がる。しかし、悪者はつまずいて滅びる。」
これが希望ではありませんか。遠回りしても、悔い改めて、またもとの場所に戻ればいいんです。
ハワイのウェイン・コデイロ牧師は、2万人の教会であるニューホープチャーチの牧師ですが、著書で自身の燃え尽き症候群の経験を書いています。私は燃え尽きそうになると、いつもこの本を読みます。私は、休むことを拒み、空っぽになっても走り続け、渇きと苦悩を経験し、そして体を壊し鬱になった。本でそう言っています。教会のために一生懸命頑張っている牧師であっても、良いことをしているはずであっても、道を見失い、遠回りをしてしまうことがあるということです。ここでいう燃え尽きるとは、結局、神さまのペースを無視して、自分のペース走り続けてしまった結果のことだからです。彼はこうアドバイスをしています。「鬱の嵐の中では、どこに向かっていいのか全く分かりません。そんな時には、振り出しに戻ります。神様は最初にどんな召しを与えられましたか?それはあなたの人生を通してずっと流れているテーマです。」「何か大切なものをなくしてしまったら、もしかしたら始めからやり直さなくてはならないかもしれません。しかし、もう一度最初の召しに立ち返ってください。残りの方向性は、きっとそこで示されるでしょう。」つまり、遠回りしてしまった時は、そのことを認めて、もとの道に戻ることが大切だということです。
さて、アブラハムが、もとの道に戻ってきてしたことはなんだったでしょうか?
信仰の回復 -祈り-
3 彼はネゲブから旅を続けて、 ベテルまで、 すなわち、 ベテルとアイの間で、 初めに天幕を張った所まで来た。
聖書(創世記13:3-4)
4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。 その所でアブラムは、 【主】の御名によって祈った。
祈りです。ここから、アブラハムの信仰の回復が読み取れます。神さまから心が離れていた自分。神さまがいなければ、恐れにとらわれ、嘘をつき、家族を傷つける自分。もう一度、祭壇に戻り、主に祈りました。アブラハムは何を祈ったのでしょうか?それは書いていません。しかし、彼は、自分のしたことを悔い改めて、人生の進むべき道を、主に委ねたことでしょう。「主よ。あなたに従って行くことが最善です。あなたの約束がなりますように。これからは、あなたの御声だけに聞き従います」
まとめ
なぜ、私たちは遠回りしたことに気づいても間違いを認めたくないのでしょう?神さまではなく、自分が旅の中心にいるからです。なぜ、私たちは遠回りしていることに気づかないでもっと道を逸れていくのでしょう?神さまではなく、いつも自分だけを見ているからです。なぜ、私たちは遠回りしていることに気づかないで、燃え尽きてしまうのでしょうか?神さまのペースではなく、自分のペースで走っているからです。なぜ、私たちは失敗したことに失望したり、冷めたりして、信仰の旅自体を諦めたくなるのでしょう?神さまを礼拝する旅ではなく、自分が納得できる旅にしたいからです。
しかし、 私たちが自分ではなく、神さまに思いを向け、神さまだけに祈る時に、私たちは焦ることなく、平安と喜びをもって信仰の旅を歩むことができるのです。 どんな人でも、遠回りしてしまう可能性があります。あなたはどうでしょう?神さまの御言葉を土台にし、御声を聞き、日々歩まれていますか?あなたの生活の中心に祈りはありますか?礼拝で一日を始めていますか?あなたの人生の方向は神さまが決めているという確信はありますか?神と共に歩んでいる喜びはありますか?
今、信仰の道から逸れてしまって遠回りをしておられる方。もう一度、どこで間違ってしまったかを考えて、方向転換をしましょう。また、もし、今までまだ神さまと歩んでおられなかった方。神さまと歩むことを決断してください。それが、人生の最善です。
メッセージを読んでくださってありがとうございました!このメッセージはYoutubeでもご視聴いただけます。