はじめに
今日も、創世記のヨセフのストーリーから、主のみことばを聞いてまいりましょう。
ヨセフは、兄たちにエジプトに奴隷として売られます。そして、奴隷として仕えたポティファルの家で試練と試みを受け、監獄に入れられて忍耐も学びます。最終的にはエジプトの宰相にまでなりました。これらすべてのことは、神がこの時のために彼を整えるためでした。この時とは、カナンの地にいる家族を、エジプトに連れて来ることで飢饉から救い出すためです。
創世記のこの箇所は、いつもヨセフにスポットライトが当たりますが、実は、これは家族のストーリーです。神様は、ヨセフと同様に、ヨセフの兄弟たち、父親のヤコブをも取り扱われていました。
神学校で、ある教授がこのように言っていました。
「神様のビジョンはスパイダーネット、蜘蛛の巣だ。大きな絵の中で、色々な人が混ざって、糸を編んでいる。神の計画は、一人一人が個人的に進めて行くものではない。」
その過程において、神様は特別な個人だけではなく、全ての人を取り扱われます。ある人は、神の取り扱いがあることに気づきません。ある人は、拒みます。100%恵みの救いであっても、全ての人が受け入れるわけではないのと同じです。しかし、神様の取り扱いを通ったものを、神様は必ず用いられます。
ヨセフの兄弟を取り扱われた神様
ヨセフの兄弟が通った取り扱いは何だったのでしょうか?
ヨセフの兄弟たちは、ヨセフが17歳の頃に、ヨセフをエジプトに売り飛ばしました。最初は、憎しみに満ち、殺すつもりだったと聖書に書いています。ヨセフの兄弟たちには多くの欠点がありました。長男のルベンは父親ヤコブのそばめと性的な過ちを犯しました。次男シメオン、三男レビの二人は、シェケムの人達を騙して皆殺しにしました。四男ユダも、創世記38章に出てきますが、カナン人と結婚し、遊女と関係を持ちます。そして、今日の箇所を見ても、彼らの欠点は変わっていない事がわかります。
1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」
聖書(創世記42:1-2)
2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」
家族のために、穀物を得る努力をしないといけないのに、父親のヤコブに叱責されるまで、動かない無責任さ、自分勝手な姿です。彼らは、憎しみからヨセフを売り飛ばした時から、神様の前に取り扱われなければいけない変わらない部分がありました。
それでは、ヨセフの父であるヤコブはどうでしょう?そもそも、なぜ、ヨセフの兄弟たちはヨセフを憎んだのでしょう?
彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。
聖書(創世記37:4 )
ヨセフの鼻につく行動も原因の一つだったかもしれませんが、一番の原因は、ヤコブのヨセフへの偏愛です。最愛の妻ラケルとの間にできたヨセフだけを特別に愛していたのです。えこひいきです。そして、今日の箇所を見ても、変わらないヤコブがいます。
しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。
聖書(創世記42:4)
ここでも、最愛の妻ラケルとの間にできたヨセフの弟、ベニヤミンへの偏愛。変わっていないヤコブがいます。
ベニヤミンだけ、身元に残して、他の兄たちをエジプトに送るヤコブ。
兄たちはどう感じるでしょうか?
「俺らは大切にされていない」と感じるでしょう。
変わらず自分勝手で無責任なヨセフの兄たち。変わらず偏愛するヤコブ。ヤコブはイスラエルと呼ばれ、その息子たちの子孫がのちにイスラエルの12部族となって行きます。しかし、聖書が記している実際の姿は、壊れた家庭です。そのような家庭は昔も今もよくあります。
私も、両親が離婚し、その父親は違う女性と住んでいます。壊れた家庭です。おそらく、どんなに「私は幸せな家庭に育った」という人でも、壊れているところがあると思います。親も完璧ではなく、子供は子供だからです。
しかし、聖書が物語の詳細を記し、容量を割いている場合、必ず神様のメッセージがあります。
創世記42章6節が今日の中心聖句です。
ときに、 ヨセフはこの国の権力者であり、 この国のすべての人々に穀物を売る者であった。 ヨセフの兄弟たちは来て、 顔を地につけて彼を伏し拝んだ。
聖書(創世記42:6)
創世記42:6で注目したい二つのこと
① 「権力者」という言葉
権力者というヘブル語は「シャリート」。支配者とも訳せます。ここでのシャリート、権力者は誰でしょうか?
ヨセフです。しかし、大きな視点で見ると、ヨセフを用いた大きな支配者がいることがわかります。誰でしょうか?パロ…ではありません。神様です。ここではヨセフの上に神様という真のシャリート、支配者がおられることを暗示しています。そして、次に注目したいことは、
② 「顔を地につけて彼を伏し拝んだ」という言葉
この場面を見て、私たちが気づく事があります。神の夢の成就です。
ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」
聖書(創世記42:9 )
ヨセフは17歳になるまで、二つの夢を見ました。最初の夢は、彼の穀物の束は立っていて、兄弟たちの穀物の束が その回りに来て、彼の穀物の束におじぎをする夢でした。夢で穀物の束がおじぎをしたように、穀物を買いに来た兄弟たちがヨセフにおじぎをすることで、彼の最初の夢が成就しました。
夢の成就は、何を表しているのでしょうか?
ーーーーそれは、「これは神の計画だ。」ということ。
つまり、この家族の物語の背景には、神様の見えない御手があるということを私たちにわからせるためです。
神様の計画は何でしょう?ヨセフを通して、家族を救うためでしょうか?もちろん、それもあります。しかし、この壊れた家族の一人一人に、神様が見えない御手によって取り扱っていることがあるのです。
それは、一人一人が、 神様の前でへりくだること です。
夢の成就だけが大切なのではなく、夢の成就に至る過程こそが最も大事です。真の支配者であられる神様が、ヨセフの家族をへりくだらせているということなのです。
ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい 荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」
聖書(創世記 42:7)
「荒々しい」と訳されたヘブル語には、「厳しく、猛烈に、暴虐に」などの意味があります。ヨセフの対応に、兄弟たちはとっても怖かったはずです。天下のエジプトの宰相がエジプト語でまくし立てるのです。ヨセフの兄たちは、ヨセフの上におられる神様にチャレンジされているのです。
このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。
聖書(創世記 42:15)
彼らは、神の見えない御手があることを悟りました。
聖書(創世記42:21-22)
21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。 」
ヤコブはどうでしょうか?
しかしヤコブは言った。「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」
聖書(創世記42:38 )
ヤコブもまた、ヨセフの上におられる神様にチャレンジされます。
「ベニヤミンを手放しなさい」。しかし、彼らは、決断します。
8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。
聖書(創世記43:8)
9 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、 あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。
ヤコブも、このように言います。
全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。 」
聖書(創世記43:14 )
ヤコブも、神様の前にベニヤミンを手放した時、神様が17歳のヨセフに見せた、二番目の夢が成就しました。ヨセフは、2つの夢を見ていました。二つ目は、太陽と月と11の星が彼を伏し拝む夢でした(創世記37:9)。神の力強い御手の下で、自分の意思で、家族がひれ伏した時、ヨセフの二つの夢全ては成就したのです。
ヨセフが家に帰って来たとき、 彼らは持って来た贈り物を家に持ち込み、 地に伏して彼を拝んだ。
聖書(創世記43:26)
まとめ
神様が、ヨセフの家族を取り扱われたように、私たちをもまた取り扱われます。
神様の前に、いつも、へりくだるように。神様が異教のエジプトを用いられました。弟のヨセフを用いられました。神様は私たちを謙遜にされるために、あらゆることを用いられます。私たちを取り巻く状況や環境を考えて見ましょう。神様は、状況を変えることではなく、私たちを変えようとしているのではないでしょうか?
私たちの周りに嫌な人、苦手な人、あまり関わりたくない人がいるとすれば、神様は、本当は、私たちを変えようとしているかもしれません。私たちの苦難を通して、試練を通して、ある時は病、ある時はアクシデント、ヨセフの兄たちのように、まだ解決していない過去の過ちはないでしょうか?砕かれるべき、自分勝手で無責任な性質はないでしょうか?ヤコブのように、どうしても、手放したくないものはないでしょうか?親として致命的な偏愛のように、砕かれるべき性質はないでしょうか?
最後に、ペテロの手紙からみことばを受け取りましょう。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
聖書(ペテロの手紙第一 5:6)
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