はじめに
教会では、毎週、聖書の話を聞きます。
その中心は「イエス・キリスト」についてです。
イエス様は、私たちの罪のために十字架にかけられ死なれ、三日後に復活された。
そして、それを信じれば救われるという内容です。
「罪からの救い」がその核心です。
そして、その罪は人類の祖先アダムが、善悪の知識の木の実を取って食べたことが原因だといいます。
それを原罪といい、そこから、私たちを含む人類に罪が入ったといいます。
ここで、一言言いたくなる言葉があります。
「なぜ、神様はわざわざ善悪の知識の木を造って、人間が罪を犯すようにされたのだろうか?」
「神様が罪を犯すようにされ、また救うと言われ、何をそんなに複雑にする理由があるのか」
「だから、キリストって信じられないんだよな」
私は実際に、ノンクリスチャンの父にそう言われました。
みなさんは、この問いにどうやって答えますか?
この考えには、落とし穴があります。
それは、神様が人間のために創造された、世界がどれほど素晴らしかったか。
そして、そこで、人間に与えられていた自由がどれほどあったかに目を向けず、善悪の知識の木とその結果だけを見て、
「神が罪を犯すようにした」という結論を導いているだけです。
まるで、ある報道官が、有名人の発言の一部を切り取って、編集して、全く違うところに論点を持っていくようです。
そもそも、「神が罪を犯すようにした」というフレーズや表現は、聖書に出て来ません。
またある人は、イエスが自分のために死なれたことは信じるけど、アダムが善悪の知識の木の実を取って食べたという、創世記の話は信じれないというかもしれません。
イエス様は2000年前、明らかに歴史上生きていた人物として信じながらも、アダムが善悪の知識の木の実を取って食べたことは神話のようだと考える人もいるのです。
いずれにせよ、創世記をちゃんと読んだ上で、判断するべきです。
今日から、新しいメッセージシリーズを始めます。
テーマは「善悪の知識の木」です。
善悪の知識の木は、なぜ重要なのだろうか?
神様は、なぜ、善悪の知識の木を置かれ、食べるなという命令をされたのか?
善悪の知識の木が、現在の私たちとどのような関係があるのか?
神様は、善悪の知識の木を通して、私たちに、どのような、メッセージを伝えたかったのか?
これらの答えを聖書から探り、「善悪の知識の木」を通して、神様が私たちに伝えたいメッセージは何なのかを共に見ていきたいと思います。
ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。
少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。
創世記2:4-14までの内容を一言でまとめるなら、「神様は人間のために、地球を創造し、エデンの園を用意された。」ということです。
地球は神様が住むために作ったのではないということです。
人間のために、私たちのために創られたということを覚える必要があります。
1地には耕す人が必要だった。
地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。
聖書(創世記2:5)
それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
これは、創造の主役、人間が舞台にまだ登場していないということです。
2エデンの園は人のために創られた。
神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
聖書(創世記2:8)
エデンという言葉の意味は、「喜び、楽しみ、豊かさ」という意味があり、人間が住むには最高の場所でした。
神様は、人間が何不自由なく、幸せに生きることができるために、全てのものを用意されました。
まず、食べ物。
神である【主】は、その土地から。見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
聖書(創世記2:9)
川と肥沃な土地。
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
聖書(創世記2:10)
金や宝石もあった。
11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
聖書(創世記2:11-12)
12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
※ベドラハ(琥珀)
もちろん、後には独り身のアダムにイブという妻も創り、人と人との繋がり、家族の幸せをも用意された。
どうでしょうか?
神様が整えた最高の舞台に、人間が置かれているのがわかるでしょうか?
3天地創造の順番を見ても明らかである。
6日目に人間が最後に創られるまでに、ほかのすべてのものを創られました。
なぜ?人間が、天地創造のクライマックスだから。
人間のために、神様がこれらのものを用意されたから。
そして、人間が作られ、神様は、「とてもよかった!」と言われたのです。
神様が宇宙万物をデザインした時の焦点はどこですか?
それは、「人間という存在が生存できる環境設定」。つまり、人間です。
酸素、太陽と地球との距離、水、食糧を用意し、芸術的なデザイン、カラー、調和を造られるまで、人間を造りませんでした。
そうです。
神様は人間のために天地を造られたのです。
熱帯魚の例え
これは、まるで熱帯魚2匹のために、私たちが環境を 整えるようなものです。
水槽を買い、酸素供給機、自動温度調節装置、蛍光灯、自動浄化機を設置し、水を入れます。
そうしてから一息ついて、用意しておいた砂を慎重に敷き、かわいい水草を植え、色とりどりの透明なガラス玉、洞窟のような形の石も置いてあげます。
それからようやく水をいっぱいに入れたビニール袋から、何も知らずに泳いでいる熱帯魚をそっと入れます。
では、その瞬間を想像してください。
あなたは、熱帯魚2匹を育てようと、ここまで努力してきました。
もし今、皆さんが熱帯魚をそっと入れる、まさにその瞬間なら、その時、熱帯魚に言いたいことはありませんか?
その言葉がどんな言葉かにかかわらず、その心の動機は愛でしょうか?あるいは憎しみでしょうか?
愛でしょう!
別にこれは、熱帯魚じゃなくても、小犬でも、自分の子供でもいいのです。
子供が産まれるまでに、すでに子供用の服をたくさん買って、専用のベッドを買う親はたくさんいます。
親の愛と喜びが、生まれてくる赤ちゃんに注がれているからです。
同じことです。
神様が、丹精にデザインし、最大限の手を尽くし環境を整え、アダムに息を吹き込み、人間を創造されました。
今まで苦労してきたのは、まさに、この「アダム」のためだったのですが、いよいよ 主人公が誕生しました。
この絶妙な瞬間に神様が何か言われたと思いませんか?
そうです。同じです。
「幸せに暮らしなさい」
「ここにある万物は、あなたのために、今までわたしが準備したものだ。すごいだろう?」
「どんなことでもしてみなさい。わたしがあらゆるものを隠しておいた。よく探してみなさい。」
そのことは、創世記1:27-28に書いてあります。
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。
聖書(創世記2:27-28)
神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。
地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
この祝福の命令こそが根本的、中心的な命令です。
神様は私たちを愛し、喜んでいました。
ただし、神を覚えよ
ところがこの瞬間、その祝福に付け加える言葉があったのです。
いわゆる付録です。
16 神である【主】は人に命じて仰せられた。
聖書(創世記2:16-17)
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるとき、 あなたは必ず死ぬ。」
「園のどの木からも自由に食べなさい。でも、あなたは わたしが造ったことを忘れるな。わたしを忘れるな」ということです。
これが「善悪の知識の木」です。
「どんなことも、喜んでしていいよ。ただし、あなたの神を覚えよ!」
わかりましたか?
これが「善悪の知識の木」です。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、
聖書(創世記2:17)
あなたは必ず死ぬ。」
私たちが「善悪の知識の木」の命令を考えるとき、人間には、ほとんど完全に近い自由が与えられていたということを忘れてはいけません。
この命令は、神様がアダムに与えたたくさんの自由や特権の中の唯一の禁止命令です。
事実、私たちは、たった一つの禁止で、与えられている自由を忘れてしまうことがあるのではないでしょうか?
中高生にもなると、門限が厳しい親が、自分を縛っていると感じる時があります。
しかし、門限までは、外で自由に遊んでいいのではないでしょうか?
また、親は子供が憎たらしくて、門限を決めているというよりも、子供を愛し、守るためにそのようなルールを決めているはずです。
この場合、親に守られていることと、実は与えられているその他の自由を忘れ、感謝できていないのです。
教会でも似たようなことが起こるかもしれません。
「クリスチャンになったら、あれもダメ、これもダメ、そんな窮屈な生き方、俺には無理だね。」
しかし、この場合も、クリスチャンになって与えられた大きな自由を忘れています。
なぜ、親が門限を作るかという理由は、親の立場になればわかります。
同じように、なぜ、神様が善悪の木を造ったのかは、神様の立場で考えて見ればわかるはずです。
人間のために、天地を創造し、すべてのものを楽しむ特権と自由、生きがいや目的を与えたあとで、神様は考えました。
「どうすれば、わたしが人を造った主人だという事実を忘れないようにできるだろうか?」
「そうだ。アダムよ、あの木が見えるか?」
「そうだ、あの園の真ん中にたくさん実がなっている木!」
「あの木の実は食べずにそのまま置いておきなさい。」
「あなたがあの実を食べずにいれば、それをもってあなたがわたしを主人だと認めていると判断する」
「幸せに暮らしながらも、いつもわたしを覚えておきなさい。真ん中のよく見える所にある木を見ていつも思い出しなさい。」
これが「善悪の知識の木」です。
では、「どんなことも、喜んでしなさい。ただし、あなたの神、主を覚えよ!」
この「善悪の知識の木」のメッセージを、私たちは実生活でどのように適用できるでしょうか?
まず、私たちは、自由が与えられており、主が造られたこの世界を楽しんでも良いことを知ることです。
頑張って仕事をしてください。精一杯、遊んでください。家族と時間を過ごしてください。スポーツで汗を流してください。体を鍛えてください。本を読んでください。
友達とカフェに行って、美味しいコーヒーを楽しみ、思う存分、おしゃべりしてください。
ちょっと、ホッとしますね。
これを許さない場合、宗教的、あるいは禁欲主義に陥ります。
20 もしあなたがたが、 キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、
聖書(コロサイ2:20-22)
どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
21 「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。
22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、
人間の戒めと教えによるものです。
しかし、次が大切ですね。皆さん。
「ただし、神を覚えよ!」
どういう風に神を覚えることができますか?
神の命令を守ること
一番、聖書的な答えは、神の命令を守ることです。
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。
聖書(伝道者の書12:13)
これが人間にとってすべてである。
神の命令を守るとは、簡単にいうと、神を愛し、人を愛することをすることです。
神が喜ぶことをして、悲しむことはしない。
その基準は、神のことばである聖書です。
また、罪を避けなくてはいけません。
神様が造られた世界を楽しむことは罪ではありませんが、それが神様よりも優先されたとき、それに思いが奪われたとき、罪となります。
15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、
聖書(1ヨハネ2:15-16)
その人のうちに御父を愛する愛はありません。
16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、
御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
では、今度は、もう少し具体的に、一週間という時間軸で考えてみましょう。
ほとんどの場合、平日は仕事や学校、家事など、それぞれが忙しくしているでしょう。
その場合、重要なのが主日礼拝です。
日曜の礼拝は他の何よりも、優先しなければいけません。
なぜですか?
「平日は、一生懸命仕事しなさい。ただし、神を覚えよ!」ということです。
神様が安息日を設定された意味もわかるでしょう。
一日の中でも、同じことが言えます。
忙しい一日のはじめに、デボーションをして、みことばを読み、祈り、礼拝することから一日を始める。
適用
さて、応用編に入ります。
平日と日曜をあまりにも区別し過ぎたり、神を忘れなければ何をしても良いということではありません。
むしろ、私たちは与えられた自由を、すべて神を覚えるため、恐るため、神の栄光のために使うことができます。
いいですか?それは私たちの自由です。
誰も私たちを強制しません。
神も私たちを強制しません。
しかし、私たちは、私たちの自由を神の栄光のために使うことができるです。
この身も、時間も、お金も、知識も、夢も、体も心も、すべて献身することができるのです。
これは、素晴らしいことではありませんか?
仕事も、家事や育児も、勉強も、体を動かすことも、食事を楽しむことも、すべてを神の栄光のためにすることができるのです。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、
聖書(1コリント10:31)
ただ神の栄光を現すためにしなさい。
そして、あえて「しない」という自由を用いて神を覚えることができます。
ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
聖書(1コリント10:32)
もし、あなたの行動で、誰かがつまづくなら、「しない」自由があなたにはあります。
この理由から、わたしはお酒を飲みません。
私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。
聖書(1コリント10:33)
善悪の木のことがわかったなら、これらのパウロの言葉がわかるはずです。
私たちは、与えられた自由を持って、神様に仕え、日々、神様を覚えることができるのです。
まとめ
私たちは、日々の生活の中で、この自由を神様の栄光のために用いているでしょうか?
一方、私たちは、「ただし、神を覚えよ」という言葉を忘れてはいないでしょうか?
もう一度、まとめましょう。
神様は、なぜ、善悪の知識の木を置かれ、食べるなという命令をされたのか?
それは、人間には、驚くべき自由と特権が与えられているからこそ、人間を造られた神を覚えるためです。
「園のどの木からも自由に食べなさい。でも、あなたは わたしが造ったことを忘れるな。わたしを忘れるな」
16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
聖書(創世記2:16-17)
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
神に喜んで従う私たちになるように、主の御名でお祈りします。
参考資料: