はじめに
誰もが、一度はこのように感じたことがあるのではないでしょうか?
外側では、自信があるように見せても、実は、自分に自信がない。
自分なんていない方がいい、自分は価値のない人間だと思ったことがある。
もちろん、幸せなときや楽しい思い出はたくさんあるけど、 時に言いようもない不安を感じる時がある。
人には言えない悲しさがある。
別に自分には悩みはない。そんなに深く考えたことはないと思っていても、 本当は、人が自分から離れていくことを恐れている。
人の目を恐れ、気にし過ぎてしまう。
将来に対する不安。人生の目的、自分が生きている意味がわからない。
このように、誰もが、マスクによって人から隠そうとする闇の部分を持っています。
私たちが孤独や不安、恐れを感じるのは、何ででしょうか?
聖書ははっきりと、その原因を示しています。
それは、私たちの中にある罪と偽りから出ることです。
創世記の3章を見ると、人類の祖先アダムは、サタンに誘惑され、善悪の知識の木の実を食べ、罪を犯します。
そこから、全人類に罪が入ったと聖書は言っています。
その後、罪を犯したアダムがしたことは、何だったのでしょうか?
「神様ゴメンなさい」とあやまったでしょうか?
違います。
アダムは神様から隠れたのです。
マスクを取って、自分の暗闇を人に見せるのが、神様に見せるのができない隠す自分がいるのです。
では、この罪と偽りからくる心の闇を解決する方法は何なのか?
その答えが先ほど、読んでいただいた、聖書に書いています。
闇に勝つものはただひとつだけです。
それは、光です。
そして、 聖書は、イエス様こそ、すべての暗闇を葬り去る光であると言っています。
今日は、三つのポイントから、イエスキリストの光を受け取っていきたいと思います。
ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。
①闇は光に打ち勝たなかった。
光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。
聖書(ヨハネ1:5)
「打ち勝たなかった」のギリシャ語「カタランバノ」は、勝つ、制圧するという意味です。
光がなければ、闇です。
光があれば、光です。
光とやみが別の実体として存在しているのではありません。
光があるなら、やみは存在しないのです。
どんなにほのかな光であっても存在するなら、その瞬間そこからやみが退きます。
光とやみは争うことはありません。
やみが光に打ち勝つことは絶対に不可能です。
光はただ存在するだけでやみに打ち勝つのです。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
聖書(ヨハネ8:12)
イエス様は光であられます。
死とサタン、私たちの罪の暗闇に打ち勝つ方法はただ一つです。
光であるイエスとともにいることです。
このことを事実として受け入れましょう。
②私たちは光でもなければ、光を作り出すこともできない。
ヨハネ1:6-8
6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
7 この人はあかしのために来た。 光についてあかしするためであり、 すべての人が彼によって信じるためである。
8 彼は光ではなかった。 ただ光についてあかしするために来たのである。
ヨハネとは、イエス様に洗礼を授けた、バプテスマのヨハネという人です。
「神から遣わされた」という表現の通り、彼は非常に尊敬されていた人物でした。
当時の人々は思ったことでしょう。
「彼のような偉大な人こそ、イスラエル、そして私たちの様々な問題を解決してくださるはずだ!」
民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
聖書(ルカ3:15)
しかし、聖書ははっきりと、彼はキリストでも、光でもなかったと言っています。
私たちも、光を偉大な人物や、アイドルなど、人に求めてしまう傾向があります。
はたまた、自分自身の努力で光を生み出そうとします。
光を作り出すとか、光を人に求めるという考え自体が間違っています。
光は、イエスさまご自身であるというのが聖書が教える事実だからです。
9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
聖書(ヨハネ1:9-10)
10 この方はもとから世におられ、 世はこの方によって造られたのに、 世はこの方を知らなかった。
イエス様は、まことの光です。
まこととは、本物の光ということ。
つまり、偽物の光があるということです。
私は銀行時代、先輩から「キリスト教は排他的だ」という言われたことがあります。
仏教も、イスラムも、いろいろな宗教があって争っているじゃん。道は違うけど、それぞれ多様性を受け入れればいいんじゃない?
みなさんどう思いますか?
もちろん、争いはいけません。しかし、はっきり言いますと、キリスト教は、真理という面においては排他的です。
真理はひとつ。真理は排他的です。
つまり、まことの光とは、そのほかの一見光と思えることも、この本当の光に飲み込まれる。
弱い光は、強い光には勝てません。
スポットライトをどんなに一生懸命当てようとしても、全体が強い照明で照らされていれば、スポットライトは意味がありません。
光が世に来た?とはどういう意味でしょう?
これがイエス様。神ご自身が、闇を葬り去るためにこの世にこられた。
それがクリスマスです。
クリスマスは、光であられるイエス様を証するとき。
この方が、すべての人を照らすそのまことの光だ!と宣言し、お祝いする時です。
③光を受け入れない人、受け入れる人。
11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
聖書(ヨハネ1:11-12)
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、 その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
光であられるイエス様が地上に来られたのに、すべての人が受け入れたわけではなかったということです。
つまり、三つ目のポイントは、光を受け入れない人と受け入れる人の二種類の人がいる。そして、受け入れる人は、神の子どもとされるということです。
ゆうき牧師のストーリー
私の姉は天に召される前、9年間も鬱に苦しんでいました。
私も、たまに鬱っぽくなる時があります。
講壇では大胆に語っているように見えるかもしれませんが、私にもそのような気質があります。
実は、今から5年くらい前のある時期、鬱の直前まで足を突っ込んでしまったことがあります。
うつになると、視界が暗くなります。
視力の問題ではなく、みている世界が暗くなるということです。
何をしても楽しくない。何を食べても美味しくない。食べたいとかならない。
どこに行こうか。面倒臭い。
休みの日にリフレッシュしなくちゃと思ったけど、あれ?俺趣味なんだっけ?何すればリフレッシュできるっけ?
無表情で、涙がツーっと出た時は、「あっ、俺やばい」と思いました。
祈り会でも祈ってもらったことがあります。
韓国でオンヌリ教会のクリスチャンカウンセリングを受けて、色々とその根っこにある問題に神様が光を当ててくださいました。
親との関係。特に父親から受け取れなかった愛。悲しみや怒り、追わなくて良い責任感。
そのようなものを心の奥底に押し込めたまま、頑張ろう、頑張ろうと自分で何でも背負ってしまうことが原因の一つだと。
父親に抱いている感情とか思いを、神さまに祈ってみましょう。
そのように、カウンセラーに言われて、ある日、韓国の奉仕教会であるオリュン教会の祈祷室に入って、ずっと祈ってました。
しばらく、祈って、疲れて、そして、このようにボソッと言いました。
「イエス様、疲れた」
「天のお父さん、疲れたよ」
その時、天のお父さんの声が聞こえました。
一言。
「よくやってるね」
その一言を聞いた時、心に暖かい光が差し込んで来たように、私の心は熱くなり、涙が溢れてきました。
実は、私は、ずっと父親から「よくやったね。頑張っているね」と承認され、言葉で愛を表現して欲しかったのです。
なんか、その欲求や傷を、たった一言で癒された、そんな出来事でした。
私が体験したイエス様の光は、暖かい光でした。
光は暖かいのです。
どのような温かさでしょうか?
天のお父さんの愛の温かさです。
なので、12節で、光であるイエスさまを受け入れる人は、神の子とされると書いてあるのです。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
聖書(ヨハネ1:12)
神の光は、私たちの闇を暴き、裁く光ではありません。
光なるお方は、私たちに近づき、私の両手を見なさいと言われます。
私が十字架にかかったのは、あなたの罪を私が代わりに受けて裁かれるためだった。
子よ。安心しなさい。
私の温かい光。愛の中に来なさい。
まとめ
光であられるイエス様を受け入れるとはどういうことでしょう?
それは、私たちの温かい父である神様の前で、イエス様の前で、私たちの仮面をとって、私たちの心の闇をすべてさらけ出すことです。
仮面をつけたままでは、闇は消えません。
しかし、もし、私たちが、「自分には闇などない」というプライドを捨て、また、「恥ずかしい」という恐れを乗り越えて、私たちを愛するイエス様の光に私たちの弱さを出すなら、その勇気をイエス様は絶対に無下にはしません。
罪はすでにイエス様によってゆるされました。
「闇は光に打ち勝たなかった」のです。
今日、仮面を外し、罪や汚れ、すべての弱さを、イエス様の光の中に持っていきましょう。
そうすれば、私たちのすべての暗闇は葬り去り、私たちは、イエス様の光によって、輝く人生を送ることができるのです。