【人生を変える聖書のメッセージ#30】私たちはひとつ「個人主義という名の妥協の波」出エジプト10:7-11

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はじめに

スティーブン・ジラールという億万長者がいました。
彼は、ある日、従業員に日曜日の勤務を命じました。
すると、ある青年が、日曜日には仕事はできないと言いました。

ジラールが「それなら、仕事を辞めてもらうしかないね」と言うと、青年は「覚悟しています。私には高齢の母親がいますが、聖日を守らないわけには いきませんから」と言って、去っていきました。

ある日、ある銀行の総裁が良い人材を紹介してほしいとジラールに依頼しました。
ジラールが自分が解雇した青年を推薦すると、総裁は言いました。
「君はその青年を解雇したんじゃないのかね。」

すると、ジラールは答えました。
「そうだ。日曜日に仕事 ができないと言うので解雇したんだ。でも、条件や事情によって信念を曲げない人間が管理する銀行なら、信頼して金を預けることができるじゃないか。」

ジラールに推薦された青年は、以前の職場よりもはるかに良い条件の仕事に就くことができました。 

2011年に津波が東北を襲いました。
それ以来、大きな津波は日本に来てはいません。
しかし、今も、信仰者を飲み込もうとしている波があります。
妥協の波です。

日曜礼拝を守ることを妥協しなかった、先ほどの青年のように、私たちも神様を第一にすることにおいて、常に妥協の波にさらされています。

ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。

パロの求めた妥協

今日の箇所は、パロが家臣たちに、このように勧められるところから始まります。

家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、【主】に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」

聖書(出エジプト10:7)

神様は、今日の箇所までに、パロとエジプトに7つの災いを下していたからです。
部下の強い勧めに対抗する術のないパロは、これ以上のわざわいが与えられないように、モーセとアロンを呼び戻します。

そして、求めたことは、、、妥協です。

まず、パロはモーセに、イスラエ ルの民のうち、どれだけの人が荒野に行って主に礼拝するのか尋ねました(8節)。

モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、【主】に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」

聖書(出エジプト10:8)

これに対してモーセは、イスラエルのすべての家族と家畜が行って主に礼拝すると答えました(9節)。

モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは【主】の祭りをするのですから。」

聖書(出エジプト10:9)

すると、パロは、イスラエルの壮年の男だけが行って神に礼拝せよと、部分的な許可をします(10節)。

10 パロは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの幼子たちとを行かせるくらいなら、【主】がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表れている。
11 そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、【主】に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」こうして彼らをパロの前から追い出した。

聖書(出エジプト10:10-11)

神の命令に対する部分的な従順は、「妥協」という名のサタンの常套手段です 
パロは、イスラエルの壮年の男だけ行って礼拝をささげ、 子どもと財産、家畜はエジプトに残しておくよう命じます。

何が問題なのか?

今日も、多くのクリスチャンがこのわなにかかっているからです。

自分は、熱心になって主を信じてエジプトから離れると言いながらも、家族を世の中に残しておいてしまっている人がいます。
親は日曜に礼拝に行き、教会に仕えているけど、子供は部活やら塾やらで忙しくて教会に来れません。

親は荒野に、子どもはエジプトにという状態です。

何が問題でしょうか?
子供達が置いてきぼりになるなら、イスラエルはいくらも経たないうちに、神の民としてのアイデンティティーを失ってしまうでしょう。

サタンは、次のように語りかけます。

「あなたがそうしたいのなら、クリスチャンになってもかまわない。でも、あなたの家族に宗教を強いるのはよくない。
特に子どもには強いてはならない。
彼らはそのようなことを理解するには幼すぎる。彼らの自由を奪ってはいけない。
今は彼らが考えるとおりに放っておきなさい。
彼らが成長したら、 真剣に考えるようになるだろう。
あなたが子どもに霊的なことを強いるなら、彼らは嫌気が差して、どうせ教会にも来なくなるだろろう。」

しかし、聖書は、これとは反対のことを教えています。

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ」(箴言22:6)。

子どもに神のことばを教えることは親に与えられた大切な務めです。
救いは、理解から来るものではなく、信仰によるものであり、信仰は聞くことから始まり、聞くことは神のことばによります。 
子どもをエジプトに残すということは、子どもが好き勝手 にするようにほおっておくということでもあります。

子どもを「主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペソ6:4)という神の教えに反することです。
「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心 に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込 みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くと きも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」(申命記6:6-7)

イスラエル民族の共同体意識

歴史を通して幾度の離散を経験したイスラエル民族が、今もなお民族としてその信仰を失っていないのは、個人個人の信仰もそうですが、聖書的な共同体意識です。
家庭という共同体で、また神の共同体の中で、聖書を土台にして、子供を熱心に教育します。

しかし、教育という観点だけで、子供を連れていくというのは不十分です。

モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは【主】の祭りをするのですから。」

聖書(出エジプト10:9)

ユダヤ人が祈る祈りは共同体としての祈りの意味合いが強いことを知っているでしょうか?

この共同体意識こそが、神様がイスラエルの民に命じた礼拝の本質であります。

モーセは、若い者も、年配者も、みんなで礼拝しなければいけません。ときっぱりいいます。

なぜか?

礼拝というのは、個人ではなく、神の民として捧げるものだからです。

だからこそ、聖書は、単に礼拝と書かずに、「主の祭り」という共同体で祝うという表現をしているのです。

サタンが望むもの

私たちはともすると、個人的な礼拝がフォーカスされがちです。
神と神の愛する共同体。

かしらであるキリストと、キリストのからだである私たちという意識よりも、自分と神だけにスポットライトが当たる。

今日、主は私に何を語られるのか?
今日、私は恵まれただろうか?

度がすぎると、家でネットでどこかの牧師のメッセージを聞くことだけが礼拝という間違った考えに発展しかねません。
礼拝の本質がわからないと、何がズレているのかわかりません。

サタンが私たちに仕向ける妥協の本質は、私たちがバラバラになること。

これは、もちろん、教会だけではなく、社会にもサタンは攻撃しています。
会社でも、一昔前よりも成果主義が入り込んでいます。

一生懸命仕事をしているならば、家族がバラバラでもしょうがいなないという考えがあるように思えます。
夜遅くまで、仕事で帰ってこない父親がいてもしょうがない。お仕事頑張っているんだから。

私は、プロフェッショナル仕事の流儀という番組が好きです。
結構前ですが、イングランドでプレーしているサッカーの岡崎選手が特集されていました。

カメラが彼の家に入っていくと、彼は単身赴任だということがわかりました。
理由は「サッカーに集中したいから」

岡崎選手には悪いんですが、ちょっと、意味がわかりませんでした。

岡崎選手が好きですし、岡崎選手だけじゃないんです。
スペインにいる乾選手もそうでした。

僕なら、家族がいた方が頑張れるんじゃないのか?と思いましたし、夫婦関係はどうなるの?
子供は??と色々考えてしまいました。

仕事を頑張ることが、当たり前に家族より優先される時代に生きています。
個人が集団よりも度を超えて尊ばれる時代です。

ひとりになりたかったゆうき牧師

先ほど、岡崎選手のことを話しましたが、自分も人のこと言えないなあという出来事がありました。

休みの日や疲れている時、どうしても一人の時間に没頭したい時があります。
この前の休みの日は、朝から24というドラマを見て、自分の世界に入っていました。

好きだから見るというよりは、他のものをシャットダウンしたいから見ているのです。
男性は分かってくれると思います。

しかし、横から、執拗に囁く声が、私の神経を逆なでします。

「これ何という映画なの?」
「あの人は死んじゃったの?」
「え?何で?」

妻の質問攻めです。最初は、「知らない」とか、「あなたも見るなら集中してみて」と我慢してましたが、もうイライラして「うるさい!」とブチ切れて、寝室にこもって、ヘッドフォンをつけて、一日中、奥さんと距離を置きました。

私は、せっかくの休みなので、一人でゆっくり休みたい。
妻は、せっかくの休みなので、私とゆっくり会話したい。
私が一人でドラマに集中していることで、妻は寂しく感じたと後で聞きました。

私が反省したことは、どっちが正しいかではなく、私が平日、必要以上に仕事を頑張りすぎて、休みの日に、妻と会話するのもしんどくなるくらい疲れすぎていることが問題だったということです。

「疲れてるから、ストレスも色々あって、休ませてくれよ!」そのように、妻によくいってしまうんですが、

仕事中心になって疲れすぎて、妻とゆっくり話す時間が取れてなかったなあ。
自分のことばかり優先しているなあ。
そのように反省したのは、このメッセージを準備している数日前のことです。

神様は今、私たちに何を語っておられるでしょうか?

妥協しないで、チャレンジすることがある。
それは、何か?

神の家族として、一つとなって、礼拝することを第一としていくことです。

もちろん、健康の問題で教会に来れない兄弟姉妹もいる。
神の家族として、誰も疎外を感じないようにしなければいけません。

教会は、会社のように、働ける人がメインではないのです。
みんなでひとつなのです。みんなで家族なのです。

まとめ

この世の支配者であるサタンは、妥協を求めて来ます。

「さあ、壮年の男だけ行って、【主】に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」

心を一つにしてサタンに宣言しましょう。
私たちは妥協しません。
主が命じられた礼拝にはいかなる条件もつけられません。
若者も、年配者も、女性も子供も、みんなエジプトを出て礼拝しに行かないといけない。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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