はじめに
①エドワード・キンボールという信徒が、D.L.ムーディーをキリストに導きました。
その後D.L.ムーディーは現代史上屈指の説教師となりました。
②そのD.L.ムーディーがF.B.メイヤーを感化し、メイヤーがウィルバー・チャップマンに影響を及ぼしました。
③チャップマンはビリー・サンデーと組んで働き、ビリー・サンデーはモルデカイ・ハムに深い影響を与えました。
モルデカイ・ハムは自分のミニストリーがうまく行かなかったと感じ、やめることにしましたが、最後に一度だけ、リバイバル巡回集会を開くことにしました。
④モルデカイ・ハムの最後のリバイバル集会に来たのが、16才のビリー・グラハムでした。
私たちがキリストに導かれるまでに、必ず誰かの影響があります。
ゆうき牧師も母の信仰と祈りのおかげで育ちました。
また、当時のユースリーダーたちが祈って誘ってくれたユース礼拝で内在される聖霊を体験し、献身に導かれました。
私たちがキリストに導かれるまでに、必ず誰かの影響があります。
なぜなら、神様は、人を通して福音を伝えられ、また、働かれるからです。
9章は、新約聖書の半分を書いたパウロが復活のイエス様に出会って回心する場面です。
9章に出てくるサウロはユダヤ式の名前。パウロはローマ式です。同一人物です。
異邦人の使徒として大きく用いられたあのパウロの回心にも、また、多くの人の祈りと犠牲がありました。
その中でも特に重要なのが今日の箇所のアナニヤです。
ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。
アナニヤという人物
さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。 ここにおります」と答えた。
聖書(使徒9:10)
ダマスコはエルサレムから北に217 kmのところであり、歩いて6日かかる場所でした。
この町には、多くのユダヤ人が住んでいて、ユダヤ教のシナゴーグもたくさんありました。
そこにいる、アナニヤという人を主は用いられます。
アナニヤは、「アナニヤよ」と呼ばれる主の声に応答しました。
主の声を聞き、反応するのを見ると、アナニヤは主との親しい関係を持っていたことがわかります。
「弟子」という言葉からもわかります。
神様はこう言われます。
11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
聖書(使徒9:11-12)
12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。 」
「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。」
アナニヤは、少し沈黙したかもしれません。
「ん?」
そして、彼は動揺したでしょう。
「ちょっと待ってください。あのサウロですか?!」
13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
聖書(使徒9:13-14)
14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
「知ってますよ!あのサウロ。」
「主よ、冗談じゃないんですか?」
「あのサウロは、エルサレムで、多くのイエス様を信じるものたちを迫害した男です!」
「ダマスコにも、イエス様を信じるものたちを逮捕するために来るのです!」
しかし、主は答えられます。
15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
聖書(使徒9:15-16)
16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
サウロという人物
正直、自分がアナニヤなら、イエス様が何を言っているのか?
何を考えているのかわからずに、混乱するでしょう。
しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
聖書(使徒9:13)
アナニヤは、ひどいことと言っていますが、サウルは、教会に対する迫害、そしてあの敬虔なステパノの殉教に大きく関わっていました。
1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
聖書(使徒8:1-3)
2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
そして、それは殺人を含みます。
私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。
聖書(使徒22:4)
この道とはイエス様を信じるものたちのことです。
9 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
聖書(使徒26:9-11)
10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
11 また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
「彼らを罰しては、 強いて御名をけがすことばを言わせようとし」とはおそらく、39回のむち打ちを指します。
アナニヤはこのことを知っていたのです。
もしかすると、サウロの迫害によって夫を亡くし、未亡人になった若い女性の話をアナニヤは聞いていたかもしれません。
もしかすると、サウロの迫害によって、両親が殺され、泣き叫び親戚に引き取られていく子供たちの話を聞いたかもしれません。
しかし、抗議するアナニヤにイエス様は、
「彼の所に行って手を置いて祈ってあげなさい。彼は、私の選んだ器だから」というのです。
アナニヤの怒りと悲しみとショック
私たちが聖書を読むと、物語として「何が起こったのか」だけに注目しがちですが、サウロが何をしたのか、アナニヤの感情はどのようなものだったのか、想像しながら読むことは大事です。
想像していくと、聖書の人物と現代を生きる私たちの間につながりが生まれます。
アナニヤの怒りと悲しみとショックは、
まさに、「誰かがあなたに罪を犯した場合7の70倍回まで赦しなさい」と聖書は言っているけど、「どうしても赦せない人がいる」現実があることとのギャップです。
これは、クリスチャンに現実的に起こることです。
私たちは、仲間や家族を迫害して殺した人をゆるせるでしょうか?
その人に手を置いて祈れるでしょうか?
その人が神様に大きく用いられることを喜べるでしょうか?
映画シークレット・サンシャイン
韓国の神学校にいた時、授業で「シークレット・サンシャイン」という韓国映画を見ました。
シネという39歳のシングルマザーの話です。
彼女は、幼い息子のジュンを連れて、死んだ夫の故郷であるミリャンへと引っ越してきます。
シネとジュンの新しい生活が始まった矢先に、悲劇は起こりました。
ある夜、シネが帰宅するとジュンの姿がありません。
その後、シネに多額の身代金の要求電話があり、ジュンが何者かに誘拐されたことを知ります。
シネは要求通り全財産を下ろして犯人に届けます。
しかし、ジュンは水辺で変わり果てた姿となって発見されます。
シネはあまりのショックで抜け殻同然となりました。
その時、彼女は、熱心なクリスチャンの薬局の奥さんから伝道されます。
神を信じていなかったシネでしたが、教会で牧師の説教を聞いて泣き叫び、悲しみを吐き出します。
それ以来、シネの悲しみは熱い信仰心へと変えられていきます。
しかし、この映画の大きな反転はここからです。
ある日、シネは「敵を赦し、敵を愛せ」という神の教えに応答する決意をします。
ジュンを誘拐し殺害した犯人を赦すという決意です。
刑務所で息子を殺したパク・トソプと面会したシネは、「あなたに神の恵と愛を伝えたいんです」と語りかけます。
それを聞いたパク・トソプは、穏やかな顔つきで「ここに入所した後、私は福音を聞きました。
神は罪人の自分にも手を差しのべ、こんな私の罪をも赦されたんです」と言います。
その犯人は、刑務所の中で、シネが犯人を赦す前に、神が自分を赦したから大丈夫だというのです。
シネはどうなったでしょうか?
このことを受け入れられず、激しく動揺します。
そして、刑務所を出た途端シネは気を失います。
シネはその日を境に自暴自棄となり、常軌を逸した行動を取るようになります。
「盗んではならない」という聖書の言葉をわざと破り、CDを万引きして教会の集会に忍び込み、スピーカーから不適切な歌を流し、妨害します。
教会の長老を誘惑します。
シネはその後自殺を図り、精神病院に収容されます。
この映画はハッピーエンドではありません。
とても後味の悪い映画ですが、実際に起こりえる内容で、深く考えさせられました。
ツタヤにDVDがありますが、子供が見れない生々しい内容も含まれているので見るときは注意してください。
この映画のポイントは、自分の子供を殺した犯人を私たちが赦してあげるではなく、
その人が主に赦されたと喜んでいる姿を受け入れることができるのか?ということです。
自分が赦す前に神様が赦している。
でも、実はそれが福音です。
聖書にも書いています。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
聖書(ローマ5:8)
アナニヤの応答
では、今日の箇所の、どうしたのか?
彼は何も言わずに応答します。イエス様の言葉通りに行動します。自分の考えや、感情は脇に置いて、です。
17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
聖書(使徒9:17-19)
18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
私たちは、自分たちを迫害するもののために祈り、その人が改心し、用いられることを喜べるでしょうか?
イエス様の例えで出て来る放蕩息子の兄もそうでした。
父親の財産を食いつぶし放蕩三昧で遊んで、帰って来た。
自業自得なはずなのに、父親は大喜びで高価な羊をほふってお祝いする。
29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
聖書(ルカ15:29-32)
30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
しかし、そこには喜べない兄がいるのです。
これは現実の話です。
聖書の中のおはなしではありません。
クリスチャンを迫害し殺したパウロを用いられる神様。
神様の憐れみと恵みは私たちには計り知れません。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
聖書(ルカ 15:7)
神の愛と私たちにはギャップがあるのではないでしょうか?
私たちはアナニヤか、サウロか?
しかし、今日は、もう少し踏み込みます。
私たちはアナニヤである前に、サウロであったということを知らなくてはいけません。
神を熱心に愛していたサウロは、まさか自分が神様を迫害しているなんて思ってもいませんでした。
誤解を恐れずに言えば、彼には悪気がなかったのです。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
聖書(使徒9:4)
もちろん、イエス様を信じる前に、イエス様を冒涜し、敵対していたらわかりやすいですが、聖書にはっきりと書いています。
私たち皆、誰もがかつては神に敵対していたのです。
あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、
聖書(コロサイ 1:21)
イエス様は、言われました。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
聖書(マタイ7:3 )
自分も神様から見れば同じ罪人なのに、他の人を見てさばいてしまう。
あんな人絶対許せないと決意する。
それは、父親かもしれない。母親かもしれない。
友達かもしれないし、会社の同僚や上司かもしれない。
過去に、自分や大切な人にひどいことをした人かもしれない。
あの人がだけは絶対に赦せない。そのような人はいるものです。
私も、昔は自分には嫌いな人はいないと思っていました。
でも、絶対に許せない!という人に出会った時、自分の感情に驚き、赦すことの難しさを体験しました。
しかし、私たちが受け入れなければいけないことは、「イエス様は、その人を愛し、赦す」ということです。
なぜか?
その人が赦されないなら、私たちも赦されないということになるからです。
アメージンググレース
他の誰でもなく、この罪深い私たちがこのようにして赦されているのこそ、神の大きな恵みなのです。
まさにアメージンググレースの歌詞です。
アメージング グレイス
なんて美しい言葉なんだろう
私のような哀れな者も救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げて下さった
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出す事が出来るの
このアメージンググレースを作詞したジョン・ニュートンは、「奴隷貿易」で富を築いていましたが、神に祈って命を助けられる体験を通して、回心します。
しかし、そのあと6年も奴隷貿易を続けました。
その後、病気で船を降りることになり、牧師となった後、「アメイジング・グレイス」を作詞します。
この歌詞には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝が歌われています。
しかし、彼の奴隷貿易によって虐げられ死んでいった奴隷たちやその家族から見たら、こんなこと虫の良い話があっていいのでしょうか?
いいのです。
なぜなら、私たちすべての人の罪のために、2000年前にイエス様が両手に釘を打たれ十字架にかかって死なれたからです。
私たちが人の罪を赦したのではなく、イエス様の十字架によって私たち全ての人の罪が赦されたのです。
まとめ
真の赦しは、自分の罪深さを知り、どれだけ深い神様の愛と憐れみによって自分が赦されたのかを受け止めることから生まれます。
アナニヤは、迫害者サウロをどのように呼んだのでしょうか?
そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
聖書(使徒9:17)
「兄弟サウロ。」
イエス様によって赦されたもの同士、それが兄弟です。姉妹です。
今日、もう一度、イエス様に目を向けましょう。
私の代わりに罰を受けたイエス様。
それは私を赦すためでした。
主よ、私もあの人を赦します。
彼も、彼女もあなたに愛されているからです。
主よ、あなたの恵みに生きるものにしてください。
そのような祈りが私たちの内側から溢れ出てくるように、主の御名によってお祈りします。