はじめに
弱さはともすると、劣等感を生み出します。
これは、クリスチャンであっても大きな落とし穴になります。
国語辞典によると、劣等感とは、「自分が他人より劣っているという感情(大辞泉)」だそうです。
そこに潜むのは、比較、被害者意識、承認欲求です。
「あいつよりは、ましだ。お前には言われたくない」という比較。
「どうせ俺なんか。俺の何を知っている」という被害者意識。
「私を見て欲しい。認めて欲しい。絶対成功して見返してやる」という承認欲求。
このように劣等感は、強烈なエネルギーを生み出し、その人の人格形成や、生き方に影響を及ぼします。
今日の箇所に出てくるアビメレクの残忍な行動をみると、彼の心の奥底に潜む劣等感が浮き彫りになります。
・アビメレクという名は「わが父は王」という意味です。
イスラエルの英雄ギデオンを父に持つ彼は、きっと常に自分の父親と比較し、また父に認めてもらいたいという思いがあったでしょう。
・70人の兄弟。
彼には70人の兄弟がいましたが、母親は違いました。
アビメレクは奴隷の女性との間にできた子供です。
当然、これは劣等感を生み出します。
「他の兄弟よりも偉くなる。」
「父親の後を継ぐのは俺だ。」
「俺にはイスラエルを治める力がある」
彼の劣等感は、父ギデオンの死後、間違った形で現れます。
母方の親族シェケムの人々を扇動して、自分の兄弟70人を殺してイスラエルを王のように治めます。
しかし、3年後にシェケムの人々がアビメレクに反逆します。
すると、怒ったアビメレクはとんでもない行動に出ます。
それが今日の箇所です。
ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。
アビメレクのとんでもない行動
46 シェケムのやぐらの者たちはみな、これを聞いて、エル・ベリテの宮の地下室に入って行った。
聖書(士師記 9:46-49)
47 シェケムのやぐらの者たちがみな集まったことがアビメレクに告げられたとき、
48 アビメレクは、自分とともにいた民とツァルモン山に登って行った。アビメレクは手に斧を取って、木の枝を切り、これを持ち上げて、自分の肩に載せ、共にいる民に言った。「私がするのを見たとおりに、あなたがたも急いでそのとおりにしなさい。」
49 それで民もまた、みなめいめい枝を切って、アビメレクについて行き、それを地下室の上に置き、火をつけて、地下室を焼いた。それでシェケムのやぐらの人たち、男女約一千人もみな死んだ。
アビメレクに戦いを挑んだガアルに協力したという理由だけで、 彼らを殺して町を破壊し、塩をまきました。
シェケムの人たちが彼を積極的に裏切ったのでも攻撃したわけでもなかったのにです。
このことは、45節までに書かれています。
そして、46節から書かれている通り、さらに1千人にもなるシェケムのやぐらの者たちをみな殺しにします。
しかし、彼のこの残忍な行動の原動力は、裏切られたショックからくるものではないことが次の節を見てわかります。
50 それから、アビメレクはテベツに行き、テベツに対して陣を敷き、これを攻め取った。
聖書(士師記 9:50-52)
51 この町の中に、一つ、堅固なやぐらがあった。すべての男、女、この町の者たちはみなそこへ逃げて、立てこもり、やぐらの屋根に上った。
52 そこで、アビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした。
テベツの人たちは、アビメレクを裏切ったわけではありませんでした。
しかし、そこを占領しようとしたのは、おそらくシェケムを攻撃した勢いに乗って、領土拡張を狙ったものと見られます。
他人との比較、被害者意識、承認欲求
人は、誰でも弱さを持っています。
そして、その弱さが、他人との比較、被害者意識、承認欲求と結びつくと、
嫉妬、競争、逃避、自慢、自己憐憫、攻撃、依存症などになって現れ、そして行き着く先は高慢です。
アビメレクは、弱さを覆い隠し、自分が一番になろうとしました。
彼は、高慢でした。
7節から
唯一生き残った、末っ子のヨタムは、彼をいばらのようなものと言いました。
14 そこで、すべての木がいばらに言った。『来て、私たちの王となってください。』
聖書(士師記 7:14-15)
15 すると、いばらは木々に言った。『もしあなたがたがまことをもって私に油をそそぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。』
いばらの木は、 自分を王とするならば、自分の陰に身を避けるようにと言いますが、いばらの木はまともな陰を作れません。
それどころか、いばらの木に近づくと、とげが刺さります。
いばらの木は、自分の不適切さを自覚できなかったようで、暴力的に統治を宣言します。
自分に身を避けなければ火が出て、 よい杉を焼き尽くしてしまうというのです。
アビメレクはどうすればよかったのか?
彼は、どうすればよかったのでしょうか?
自分がいばらの木のようなものであることを認め、神と人の前に謙遜に出る必要があったのです。
ヨタムの例えには、いばらの木のほかに、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木が出てきます。
8 木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』
聖書(士師記 9:8-13)
9 すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
10 ついで、木々はいちじくの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
11 しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
12 それから、木々はぶどうの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
これらの木は、神様と人々の益となるめに、自分に与えられたものを用いて、仕える謙遜な人をさしています。
いばらの木は、高慢になり、人を支配しようとしました。
私たちは王になることを求めてはいけません。
王はただ一人、イエス様だけなのです。
アビメレクの劣等感にまみれた最期
神様は、自分が王と錯覚する高慢なものをそのままにはしておきません。
52 そこで、アビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした。
聖書(士師記 9:52-53)
53 そのとき、ひとりの女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いた。
アビメレクはやぐらの下が危険であると知りながらも、シェケムの町での勝利に酔って油断して近づいて行きます。
そして、ひとりの女が投げつけたひき臼の上石がアビメレクの頭に当たって、頭蓋骨が砕けます。
彼が一つの石の上で兄弟たちを殺したように、 彼も石でできたひき臼に当たって死にました。
王冠に欲を出して悪事を謀った彼の頭に、石が当たって砕けました。
彼が悲劇的な最期を遂げたのは、彼の悪行の数々や高慢に対する、神のさばきです。
アビメレクは、女に殺されたのだと言われないために、自分の道具持ちの若者に剣で自分を殺すよう命じます。
54 アビメレクは急いで道具持ちの若者を呼んで言った。「おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ。女が殺したのだと私のことを人が言わないように。」それで、若者が彼を刺し通したので、彼は死んだ。
聖書(士師記 9:54-55)
55 イスラエル人はアビメレクが死んだのを見たとき、ひとりひとり自分のところへ帰った。
ひとりの女が投げつけた石に当たって死ぬことを恥だと思いました。
彼は、最後まで神にあわれみを求めようとはせず、自分がどんな罪を犯したのかに気づこうとしませんでした。
死ぬ瞬間にすらも劣等感を隠し、プライドだけを守ろうとして、女に殺されたと言われることだけを心配しました。
士師記9章で繰り返し強調されていることは、すべての出来事の上に、王なる主がおられ、すべてのことをコントロールしているのだということです。
王はアビメレクではないのです。王はイエス様なのです。
神は、アビメレクとシェケムの者たちの間にわざわいの霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。
聖書(士師記 9:23)
そして、今日の箇所の最後でも、こららは偶然起こった事ではなく、神の裁きであることが強調されているのです。
56 こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行った悪を、彼に報いられた。
聖書(士師記 9:56-57)
57 神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが彼らに実現した。
神は私たちに何を語っておられるのか?
今日、神様は私たちに何を語っておられるのでしょうか?
私たち一人一人に弱さがあります。
家庭環境によって劣等感を感じて生きてきた人がいるでしょう。
常に、人と比べて、弱い自分に打ち勝つために、人に馬鹿にされないように「強くなろう。見返してやろう」
そのように歯を食いしばって一生懸命努力をしてきた人がいるでしょう。
しかし、私たちは一人で生きていくことができるほど、強くありません。
もし、一人でも大丈夫。とどこかで強がっているならば、それは高慢な態度です。
自分の劣等感をほかのもので補うことをやめましょう。
自分の足りない点を、神と人の前で正直に認めてください。
そうすれば欲から解放されます。
与えられたものに感謝し、神と人のために仕える人が、謙遜で幸せに生きることができるのです。
イエス様は、傷つかないために身につけたガチガチの筋肉の鎧を身にまとった私たちに、
「もっと頑張れ!」「強くなれ!」「泣くな!弱音を吐くな!」と言われる方でしょうか?
私の知っているイエス様はそんな方ではありません。
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
聖書(マタイ11:28-30)
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
まとめ
私たちには、どのような隠れた劣等感があるでしょうか?
「あいつよりは、ましだ。お前には言われたくない」という比較。
「どうせ俺なんか。俺の何を知っている」という被害者意識。
「私を見て欲しい。認めて欲しい。絶対成功して見返してやる」という承認欲求。
今日、その筋肉の鎧を主の前に脱ぎましょう。
弱い、傷ついた、本当の自分で、主の前にでていきましょう。
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
聖書(2歴代誌7:14)