はじめに
今日イスラエルでは、七週の祭りの際にルツ記を読みます。
七週の祭りは、ヘブル語ではシャブオット、キリスト教会はペンテコステと呼んで来ました。
なぜ、ルツ記を七週の祭りで読むのか?重要な書だからです。
ルツ記を読む時、二つの重要なことを頭に入れる必要があります。
一つ目は、これはダビデが生まれるベツレヘムでの出来事ということ。
二つ目は、これは士師記の時代の出来事だということです。
なぜ、ダビデが生まれるベツレヘムでの出来事が重要なのか?
それは、ダビデのひいおばあちゃんがルツだからです。
そして、ダビデからイエス様が生まれます。
では、もう一つ、士師記の時代の出来事だというのがなぜ重要なのか?
それは、士師記はみなさんがご存知の通り、イスラエルの歴史における霊的に堕落した最悪な時だったからです。
その暗黒時代に、未亡人ナオミと、異邦人ルツという名もなき2人の女性の信仰が、イスラエルの王ダビデ誕生に用いられるからです。
今日は、2章なので、ルツ記1章のストーリーをざっとお話しします。
1章で、ナオミという女性の人生は急転します。
ナオミは故郷を離れてモアブに移住し、そこで過ごした10年の間に夫と息子2人を失うのです。
ナオミはベツレヘムに戻ることにしますが、2人の嫁にモアブに帰るように促します。
ナオミの強い勧めに1人の嫁は戻って行きます。
しかし、もう1人の嫁ルツはしゅうとめを捨てて帰ることはできないと言い、ともに行くことにするのです。
ナオミとルツの2人がベツレヘムに着くと、ちょうど大麦の収穫が始まっていました。
ちょうど、5月の今時期です。
ルツは、しゅうとめのナオミを養うために、ボアズの畑に行って落ち穂を拾い集めます。
ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。
聖書(ルツ記2:3)
「はからずとも」というヘブル語は、「ぶつかる」という意味があります。
まるで、事故のように、いきなりルツの人生にボアズがやってきたのです。
ユダヤ人の思考の中には、「nature」は存在せず、すべてが「creature」だそうです。
つまり、自然なものはなにひとつなく、全てが創造されているので、神にあっては、はからずも起きることはひとつもないということです。
はからずも、ルツがボアズの畑に来たことは、完璧に計画された神の回復のご計画であり、すばらしい救いのドラマの序幕であったのです。
今日は、ルツ記から「私たちの人生を導いておられる神様」のメッセージを聞いて参りたいと思います。
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①主は見ておられる
10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」
聖書(ルツ記2:10-11)
11 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。
だれが見ていなくても、神様はすべて見ておられます。
ルツはボアズのことをよく知りませんでした。
しかし、ボアズはルツのことを人々から聞いて知っていました。
ボアズがルツのことを知っている以上に、神様が私たちを知っておられます。
神様が私たちひとりひとりを造られたので、神様が私たちのことで知らないことはなく、見ていない瞬間もありません。
神様は、ルツの何を見ておられたのでしょう?
5 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」
聖書(ルツ記2:5-7)
6 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。
7 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」
神様は、ルツの勤勉さを見ておられました。
ナオミとルツは、ベツレヘムに戻って来たものの、生活のあては何もありませんでした。
貧しいやもめの2人の人生は、完全に行き詰まっていました。
しかし、ルツは心配するのではなく、信仰によって一歩前進するのです。
7節の『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言うことは、とても勇気のいることでした。
モアブ人なので、いじめられるかもしれません。
朝から晩まで働いても、落穂拾いなので、やっと食べていけるかどうかという量にしかなりません。
普通に考えれば、不安や不満を抱えて、嫌になります。
しかし、ルツは、慣れない地で、人々のすることをよく見て、それを謙遜に習おうとしたのです。
そのようなルツを見たボアズは、彼女がもっと多くの落ち穂を拾えるようにしたのです。
「はからずとも」です。
なぜですか?
神様がルツの信仰の行動を見たからです。
信仰とは、ただ待って何もしないことではなく、自分の置かれた場所で、見てくださる神様を信頼し、最善を尽くすことです。
聖書はこのように言っています。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
聖書(マタイ6:34)
あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
聖書(詩篇55:22)
問題は、このみことばを信じて、行動するかどうかです。
このみことばが真実であると信じるからこそ、私たちは心配を振り払って、前に進まなければならないのです。
エジプトに奴隷として売られたヨセフはどうでしたか?
自分の奴隷という身分にため息をつき、自分を売った兄弟たちを思い出しては恨み言を言い、あすの心配をして落ち込んだりはしませんでした。
奴隷として熱心に仕え、自分の仕える家が祝福されることを願ったのです。
不条理な理由で牢に入れられましたが、そこでも徹底的に人々に仕えました。
その後、彼はどうなりましたか?
一日で総理大臣になり、イスラエルだけではなく世界のために大きく用いられました。
生きておられる神様に信頼し、勤勉に生きる者に、神は恵みを施してくださるのです。
なぜ?
真実で恵み深い神様が見ておられるからです!
②主は報いてくださる
【主】があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
聖書(ルツ記2:12)
ボアズ はルツに、主が「報いてくださり」「豊かな報い」が あるようにと祝福します。
この「報い」は、行動に相応した代価です。
ルツの信仰による行動に、神様は必ず報いてくださるということです。
【主】があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
聖書(ルツ記2:12)
「あなたがその翼の下に避け所を求めて来た」のヘブル語は、「あなたはその翼の下に隠れるために(安息の場を求めて)来た」 と解釈できます。
この言葉は、ナオミがベツレヘムに戻る道の途中で、2人の嫁の将来のため「それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように」モアブに戻りなさい (1:9)と言ったことを思い起こさせます。
しかし、ルツは、故郷に帰って平和な暮らしを求めることはせず、イスラエルの神の翼の下に隠れるため来たのです。
15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」
聖書(ルツ記1:15-18)
16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。 あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」
18 ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。
ルツはナオミに信頼したのではありません。人生の全てをナオミの信じるイスラエルの神に委ねたのです。
1つ目は「あなたの行かれる所へ私も行」くという、人生の目的地に対する決断です。
2つ目 は「あなたの住まれる所に私も住みます」という、生きていく場所に対する決断です。
3つ目は「あなたの民は私の民」という、存在とアイデンティティー、および所属に対する決断です。
4つ目は「あなたの神は私の神」という、信仰に対する決断です。
5つ目は「あなたの死なれる所」が自分の死ぬ所であるという、死に関する決断です。
6つ目は、しゅうとめが葬られる所が自分の葬られる所であるという、この地で最期のときを過ごす地に対する決断です。
この決断を神様は、ボアズを通して、このように受け取ったのです。
【主】があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
聖書(ルツ記2:12)
「あなたは全てを捨てて、イスラエルの神の翼の下に隠れるために来ました。」
「今、あなたには大きな報いがある」と。
私たちは、このみことばを信じるべきです。
人生でどのような困難があっても、イスラエルの神の翼の下に身を委ねれば、必ず報いがあります。
神様は、そのような謙遜で、ご自身を求めるものを決して見捨てません。
私たちの神様は、報いてくださる神なのです。
③主は慰めてくださる
何もかも神に委ねて、勤勉に落穂拾いをして働いたルツでしたが、慣れない地で、慣れない仕事をし、肉体的にも疲労困憊していました。
私たちもそうですよね?
神様は見てくださる。神様は応えてくださる。でも、私たちの生きる現実の人生は辛いのです!
私も関西のKBIの神学生の時も、経済的に毎日きつかったですが、韓国の神学校時代もしんどかったです。
ソウルの家賃は札幌より高いですし、韓国は大学院だったので授業料も毎学期35万円くらいでした。
韓国には何もない状態で行ったので、毎学期、経済的にプレッシャーがありました。
その時のトラウマがあるので、札幌に戻ってきても、私たち夫婦の喧嘩のほとんどが経済的なことです。
また、私は姉を10年ほど前に亡くしているので、やっぱり今でも寂しくなります。
この前が、姉の命日でした。
写真を見ながら、「もし生きていたら一緒に話したり、もっと時間を過ごしたりしたかったな。」と思っていました。
若い娘を亡くした母のことを思うと、もっと悲しくなります。
夫を亡くし、異国の地で経済的に困窮していたルツが何よりも必要としていたことは、慰めです。
そんなルツを神様は知っていました。
なので、「はからずとも」ボアズの畑に彼女を導くのです。
8 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。
聖書(ルツ記2:8-9)
9 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」
このボアズの配慮は、どれほど ルツの心に染みたことでしょうか。
しかし、ルツにとっての一番の慰めは、ボアズの配慮だけではありません。
彼女にとっての一番の不安は何だったでしょうか?
住む家?お金?将来?
もちろん、全部ですが、若い未亡人のルツにとって、一番の慰めは再婚することです。
夫がいれば、住む家、お金、将来も困りません。
当時は、特に、夫の存在と、生まれる子供は女性にとっての祝福でした。
神様の慰めは、ルツ記の3章以降にクライマックスを迎えますが、神は、ボアズを夫としてルツに与えることで、最大の慰めをルツにもたらしました。
ルツ記を通して、神様がどういうお方かを知ることができます。
①主は見ておられる
②主は報いてくださる
③主は慰めてくださる
広がる神様の慰め
しかも、神様の慰めはルツだけではありません。
ルツに子供ができて、全てを失い、もう結婚もできる年齢ではないナオミにも慰めが与えられます。
4:13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、 【主】は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
聖書(ルツ記4-13-17)
4:14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった【主】が、ほめたたえられますように。
4:15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。聖書は、まるでナオミの子供のように記しています。
4:17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
なぜ?モアブ人ルツの信仰は、ナオミの信仰の影響だったからです。
もちろん、神様は、信仰にあつく、ルツを真実に引き取ったボアズをも、祝福されます。
彼とルツの子から、エッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれます。
彼は、あのダビデ王のひいおじいさんになるのです。
神の慰めはそこでも終わりません。
ルツを慰め、ナオミを慰めた、神様はイスラエルをも慰めます。
この出来事は、霊的に最悪だった士師記の話です。
なんという大きな慰めでしょうか?
あんなにひどい状況のイスラエルの慰め、それは、ダビデでした。
異邦人ルツが信仰によって、落穂拾いをしていなければ、ボアズに出会うことはなく、またダビデも生まれませんでした。
まとめ
みなさん、私たちがどんなに最悪な状況にいたとしても、周りと比べて死にたくなるような状況にいたとしても、
ご自身を求め、へりくだって、その翼の陰に飛び込むものを、神様は決して見捨てません。見放しません。
なぜなら、
①主は見ておられる
②主は報いてくださる
③主は慰めてくださる
からです。
私たちにとっての落ち穂拾いはなんでしょう?
置かれている場所で、主を信じ、最善を尽くしましょう。
私たちの信仰による歩みの一歩一歩を、100倍にもしてご自身の栄光のために用いてくださる主を信じ、
どんなに辛い状況であっても、主の御前で最善を尽くし、生きて生きましょう。