はじめに
今回の箇所は、ダビデの次男アブシャロムが父ダビデに謀反を起こし、エルサレムから逃げ出す状況で起こったことです。
ダビデがバフリムまで来ると、サウルの親族でベニヤミン人であるシムイがそこから出て来ます。
5 ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。
聖書(2サムエル記16:5-6)
6 そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。
なぜ、突然ダビデの前に現れたシムイは、 ダビデに向かって石を投げつけながら、のろいのことばを吐いたのでしょうか?
7 シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。
聖書(2サムエル記16:7-8)
8 主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」
それは、シムイは、ダビデが、サウルの家の多くの人を殺して、王国を奪ったと思っていたからです。
この時、ダビデの心のうちはどのようなものだったでしょうか?
シムイの侮辱的な言葉。石を投げつけられる。
しかも、しつこいくらい継続して、横に並走して、
ダビデは王でした。
「俺は王だぞ?無礼者!」とさばくことができました。
しかも、周りで部下も聞いているし恥ずかしい。
しかも、シムイの言っていることは事実無根でした。
そもそも、ダビデはサウルを殺すようなことは決してありませんでした。
逆にサウルがいつもダビデの命を狙っていた。
「油注がれたものだから」といつも尊敬をやめなかった。
サウル王はペリシテ人の戦争中に死にました。
サウルのおじアブネルは、ヨアブとアブシャイの単独行動によって殺され、
サウルの子のイシュボシェテは、サウルと同じベニヤミン族に殺されました。
サウルの孫のメフィボシェテに対してしたように、ダビデはサウルの家族に対して誠心誠意を尽くしました。
彼には、次のような言葉が喉元まで来ていたでしょう。
「いやいや俺はそんなことしていない!」
私たちもこのようなことありませんか?
陰で、自分の悪口、不満、批判、誤解されていることを聞いた時、どのような感情が芽生えるでしょうか?
腹がたつ。信頼していた人に言われたショックと悲しさ。
指摘した人を裁き、反撃し、「私はそんなことしてない!」自分を守ろうとするのではないでしょうか?
人間関係でよくこのようなことがおこりますね。
ダビデこそ、自分の潔白を証明することができました。
しかし、今回の箇所でダビデがしたことは、沈黙でした。
怒る部下アブシャイをも止めました。
9 すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」
10 王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」
聖書(2サムエル記16:9-10)
1サムエル25章で、ダビデは無礼で愚かなナバルに対して激しく怒り、殺そうとしました。
しかし、今回は事実無根であったのにも関わらず、怒らずに受け入れました。
なぜ、ダビデはそうすることができたのでしょうか?
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ダビデは
①自分の罪深さを知っていた。
10節の「これはわたしのこと」とは、神さまの前に犯した罪のことをいっています。
つまり、2サムエル記11章で犯した、大きな罪とその悔い改めを通して、彼は自分の罪深さをよく知ることになったのです。
ダビデが罪を犯した後に書いた詩篇51編にはこうあります。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
聖書(詩篇51:3)
シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。
聖書(2サムエル記16:7)
例え、シムイが事実とは異なることによって自分を侮辱しても、殺人をし、人の妻を奪ったダビデはこの言葉を否定することはしませんでした。
しかも、ダビデは大きな罪を犯したから自分はよこしまなものである。という考えではなく、私は生まれたときから罪人であったと言うほど、自分の罪深さを悟っていました。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
聖書(詩篇51:5)
しかし、ダビデは、自分がどれだけ罪深いかを体験を通して悟っていただけではありません。
ダビデは、
②主の主権に身を任せていた。
10 王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」
聖書(2サムエル記16:10-11)
11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
ダビデは二回も、「主がシムイにダビデを呪えと命じた」と言います。
これは神さまがダビデを呪わせるように実際に指示したという意味ではありません。
神の主権の中で、神様がそのような状況が起こることを許されたという意味です。
ダビデは、自分が侮辱され呪われることの原因は自分自身にあり、神の正しい裁きがくだっているのだと言っているのです。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
聖書(詩篇51:4)
私たちは、自分にとって嫌な事が起きたとき、理解できないことが起きたとき、試練のとき、怒りをどこかにぶつけます。
ある時は人に、ある時は自分自身を責め、そしてある時は神さまに対して「なぜ、こんなことをするんですか!」と言いたくなることがあります。
しかし、私たちは結局不完全な者で、正しく完璧な神さまを責めることはできません。
主権者である主がすべてを治めておられるということを認めなくてはなりません。
箴言にもこのように書いています。
逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。
聖書(箴言26:2)
ダビデは、
①自分の罪深さを知っており、
②主の主権に身を任せていました。
しかし、ダビデはこの2つだけではなく、彼の人生を通して
③主がどういうお方かを知っていた
のです。
これが、3つ目のポイントです。
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」
聖書(2サムエル記16:12)
新改訳2017はこのように訳されています。
おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」
聖書(2サムエル記16:12)
ダビデは、神さまが「良いお方」であることを知っていたのです。
Its very Simpleです!しかし、Very Importantです!
確かに私は罪を犯した。
自分の罪とそのあとの対応が、家庭崩壊に影響したかもしれない。
今は実の息子に命を狙われ、シムイにも侮辱されている。
心は最悪の状態です。いろんな感情が渦巻いています。
しかし!しかし、主はこんなわたしを憐れんでくださるお方だ。
神さまはいつまでもわたしを怒っておられない。
神さまはわたしを愛してくださっている。
6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、 情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
聖書(出エジプト34:6-7)
7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
ダビデがそうであったように愛する者を懲らしめられます。
しかし、それは4代までです。
逆に、恵みは何代まで保つと書いているでしょうか?
千代です!
ダビデの実体験
ダビデは、この憐れみに満ちた神様を、実体験を通して知っていました。
不倫相手のバテシェバから生まれたダビデの最初の子供は、すぐに死にました。
これは、聖書に神様の裁きだとはっきりと書いています。
しかし、そのあとにバテシェバから生まれたソロモンを、主は「エディディヤ」と名付けてくださいました。
24 ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。【主】はその子を愛されたので、
聖書(2サムエル 12:24-25)
25 預言者ナタンを遣わして、【主】のために、その名をエディデヤと名づけさせた。
エディデヤとは「主に愛されるもの」という意味です。
ダビデは、裁きを超えた主の赦しを受け取っていたのです。
これは、ダビデの子から永遠の王国が建てられるという、7章の契約を思い起こすことでもあったでしょう。
あなたの神さまはどういうお方でしょうか?
私たちは、自分がどれほど罪深いかを知る必要があります。
なぜなら、罪が増し加わるところに恵も大きいからです。
そして、私たちは全てを正しく裁かれる主の主権を信じる必要があります。
しかし、それ以上に、神がどれほど、恵みに満ちておられ、私たちを愛しておられるかをもっと、もっと深く知る必要が同じくらいあります。
しかし、あなたの神、【主】はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、 【主】は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、【主】は、あなたを愛しておられるからである。
聖書(申命記23:5)
私たちの父なる神は、呪いを祝福に変えられる神なのです!
なぜでしょうか?
それは、あなたを愛しておられるからです!
しかし、ここでよく考えると、ある矛盾にぶつかります。
なぜ、罪を犯す私たちに、完全に正しい主権者なる神様は、呪いではなく祝福を与えるのか?
そんな虫の良い話はあるのか?
あります!
それは、神ご自身が、イエス・キリストが私たちの罪の呪いを代わりに受けて、死んでくださったからです。
どこでですか?十字架です。
イエス・キリストが受けた罪の呪い
イエス・キリストは、ダビデがシムイに呪いの言葉をかけられ、石を投げられたと同じことをされました。
29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
聖書(マルコの福音書15:29-32)
30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
32 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
人々は「神ならば自分を救ってみろ」とあざけりました。
イエスさまは神の御子です。
そんなことは簡単にできたでしょう。
しかし、イエスさまは侮辱され、挑発されても、決して自分を主張しませんでした。
それどころかこのように祈りました。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
聖書(ルカの福音書23:34)
なぜでしょうか?
それは、私たちの罪を赦すため、罪の呪いを代わりに受け、私たちを祝福するためでした。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
聖書(ガラテヤ3:13)
まとめ
私たちが陰で、自分の悪口、不満、批判などをされていることを聞いて、腹が立つ時。
誤解され、認めてもらえなく、寂しくなった時。
自分が罪のある不完全な者であることを受け入れ、主権者なる神に全てを任せましょう。
なぜなら、私たちは、主がどういうお方かを知っているからです。
6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、 情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
聖書(出エジプト34:6-7)
7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
どんな罪があっても、主の前に悔いあらため、
主はわたしを愛し、赦してくださっている事実、そしてイエスさまだけに目を向けましょう。
最後に12節を共に読んで祈りましょう。
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」
聖書(2サムエル記16:12)