はじめに
コリント人への手紙を書いたパウロの時代の教会には、乗り越えるべき二つの大きな障壁がありました。
一つは割礼、つまり宗教的な障壁であり、もう一つは奴隷制度、つまり社会的な障壁でした。
コリントの教会にも、ユダヤ人と異邦人、主人と奴隷が共存するようになっていました。
この場合、何が問題になって来るかというと「立場や身分の違い」です。
「異邦人は、ユダヤ人のように割礼を受けないとだめだ」という人がいたり、
逆に、割礼を受けていたユダヤ人の中には、割礼の跡を消そうとする外科的な手術をするため人もいました。
ギリシャ社会での高い身分を得るためです。
割礼とは、ユダヤ人が神に命じられた、生まれて8日目に、下半身の包皮を切り取る信仰の行為です。
また、キリストを受け入れたは良いけど、主人と奴隷の関係はどうなるんだ?という問題がありました。
もし、キリストを受け入れたなら、私たちは神の前で平等である。
ならば奴隷制度は廃止するべきでは?
そのような論議も生まれていました。
皆さんならどうしますか?
これは、現実的な問題です。
私たちの教会にも、状況や社会的立場の異なる人々が集まっています。
出身や生まれ育った環境、才能や好みも違います。
7章のはじめでも語られたように、結婚に関しても、独身の賜物を与えられた人もいれば、結婚の賜物を与えられた人もいます。
私たちがお互いの立場や身分に気をとめるなら、様々な問題が発生します。
ほかの人と比較して優越感や劣等感を抱いたり、
この世の価値観に合わせるために、より良い社会的立場になろうとするような動きが生まれたりします。
しかし、パウロは、今日の箇所でコリントの聖徒たちに、次のことを強調しました。
ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。
召されたままの状態を維持すべき
17 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
聖書(1コリント7:17,20,24)
20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
おのおのが、召されたままの状態を維持すべきことをくり返し、強調します(17, 20, 24節),
「召されたとき」とは、主イエスを信じて救われたときの状態と状況のことです。
未婚者として召された人もいますし、結婚した状態で召された人もいます。
ユダヤ人もいるし、異邦人もいます。
奴隷もいるし、その主人もいます。
これは、召されたときの自分の状況にに一生とどまりなさいという意味ではありません。
パウロは、奴隷の立場から自由になれるなら、自由になりなさいとも言っています。
要するに、ここで最も伝えたいことは、「立場や身分自体が重要なのではなく、召してくださった神に従うことがもっと重要だと言っているのです。
ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
聖書(1コリント7:17)
「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ」の「いただいた」とは、「分ける、分割する」という動詞の過去形です。
つまり、神様はすでに各自に合うもの与えてくださっているということを意味しています。
ないのではないのです。すでに与えられているのです。
なので、すでに神様に与えられた、立場や身分を十分生かして仕えることが大切なのです。
「あの人のようにならなきゃ。」
「あの人のようになりたい。」
「状況や身分が変わるように求める」
のではなく、もっとも大切なのは、どんな状況であっても、置かれた場所で、主権者である神様の召しに従って、最善を尽くしなさいということです。
置かれた場所で咲きなさい
2012年で最も売れた本ベスト2位の「置かれた場所で咲きなさい」で故・渡辺和子シスターはこのように言っています。
不平不満を口にする私にある神父様が一つの詩をくださったのです。「神様がお植えになったところで咲きなさい。咲くということは仕方がないとあきらめるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」
ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
聖書(1コリント7:17)
この17節の「歩むべきです」は、「動いて行きなさい」と言う具体的な行動を強調する言葉です。
置かれた場所でぼーっとするのでもなく、諦めてそこにいるのでもなく、能動的に咲くのです。
時間の使い方は、そのままいのちの使い方。置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。
「こんなはずじゃなかった」と思う時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。
私は変わりました。そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方幸せになったり不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない。
――どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと、決心することができました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。
では、置かれた場所で、どのように咲くのか、歩むべきなのか、
パウロは、割礼を例にあげつつ、このように言います。
割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
聖書(1コリント7:19)
重要なのは神の命令を守ることです。
「神の命令」とは何でしょう?
ちゃんと、聖書に書いています。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
聖書(1ヨハネ 3:23)
もう一箇所。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
聖書(1ヨハネ 5:3)
つまり、神を愛し、隣人を愛することです。
これは、ユダヤ人に与えられた律法の精神そのものです。
イエス・キリストは、ユダヤ人に与えられた律法を古いものとして捨て去ったのではなく、律法を神を愛し、隣人を愛する」ことによって完璧に成就されました。
人が友のために命を捨てるほどの愛はないとあるように、イエス様は、十字架上の死によって「神を愛し、隣人を愛する」ことを全うされ、「完了した」と言ったのです。
地震のこと
2018木曜日午前3:8。
北海道に大きな地震が起きました。
その時から大規模な停電が起こり、場所によっては水道の水も出なくなりました。
木曜の早朝から、教会員の安否を確認し、水の出ない家に水を運びました。
ご飯を作ったり、水を確保したり、コンピ二やスーパーを回ったり、
その時の教会のスタッフの動きはすごかったです。
自分の家のことだけでも精一杯なのに、他の教会員や他教会に物資や水を運ぶために犠牲を払う姿、それはまさに神の命令を守ろうとする忠実な姿でした。
その日の夜、ろうそくの火のもと、今日のメッセージ準備をしていながら、ふと、マタイ25章のイエス様の語った言葉が迫ってきました。
マタイ25章の前でイエス様は、世の終わりには、方々に地震が起こるとあります。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
聖書(マタイ24:7)
私たちは終末に生きていることを何か再確認するようでした。
マタイ25章のたとえ
マタイ25章で、イエス様は終末に関する三つの例えを話します。
一つ目は、花婿を出迎える十人の娘の話。そのうち五人は愚かで、 ともしびは持っていたが、 油を用意しておかなかった。
もう五人は賢かったので、花婿といっしょに婚礼の祝宴に行きました。
二つ目は、タラントの話。
一人の主人が、 三人のしもべに、おのおのその能力に応じて、 五タラント、 二タラント、 一タラントを渡し、 旅に出かけます。
二人のしもべは商売をしてタラントを増やしますが、一人は隠しておきました。
それで主人が帰ってきた時、悪いなまけ者のしもべと叱責されます。
実は、これら二つの例えは、世の終わりの預言です。
一つ目の10人の花嫁の話は、イエス様が再び来られるまでに、しっかり準備することがポイント。
二つ目のタラントの話は、イエス様が再び来られるまでに、忠実に仕えることがポイント。
そして、三つ目の例えは、イエス様が再び来られた時、羊と山羊に分けられるというもっと直接的な話です。
全世界の人のうち、羊と呼ばれた人は天国。山羊と呼ばれた人はは地獄に行きます。
31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
聖書(マタイ25:31-34)
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
ここからが、今日の箇所につながる部分です。
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
聖書(マタイ25:35-40)
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、 わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
聖書(マタイ25:41-46)
42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。 」
世の終わりに、私たちがするべきことは何か
今日のメッセージの箇所とつながっているような気がします。
17 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
聖書(1コリント7:17-19)
18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
今こそ、立場や身分にとらわれるのではなく、今与えられた状況で、神の命令を守ることです。
神の命令を守るとは、神を愛し、隣人を愛すること。
そして、もっと具体的には、マタイ25のように、
イエス様の兄弟たち、 しかも最も小さい者たちのひとりが空腹であったとき、 食べる物を与え、 渇いていたときに飲ませ、 旅人であったときに宿を貸し、
裸のときに着る物を与え、 病気をしたときに見舞い、 牢にいる時にたずねてあげることです。
どうやったら、そんなことができるのか?
それは、私たちが私たちの本当の身分や立場をしっかりと認識した時に可能になります。
22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、 召された者はキリストに属する奴隷だからです。
聖書(1コリント7:22-23)
23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
私たちは、イエス様の十字架の死と復活によって、贖われたものです。
なので、私たちはたとえ奴隷でも、主に属する自由人であり、 自由人でも、 キリストに属する奴隷です。
私たちは嫌々従う奴隷ではなく、自由意志を持って、キリストに従っていくしもべだということです。
キリストに属するものは、キリストのようになります。
キリストの力によって、キリストの霊である聖霊によって、キリストがされたように神と人を愛することが可能になるのです。
まとめ
私たちは、何を人生の土台にしているでしょうか?
状況や社会的立場、出身や生まれ育った環境、才能や好み、賜物やビジョンでしょうか?
私たちの人生の土台はキリストです。
そして揺るがない立場は、イエス様に贖われた、キリストに属する自由人であり奴隷です。
私たちの行動の原動力は何でしょうか?
より良い立場を獲得することでしょうか?
能力を高めることでしょうか?
状況を好転させることでしょうか?
私たちの原動力は、「神の命令を守ること」です。
最後に19節を共に読んで終わりたいと思います。
割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
聖書(1コリント7:19)