はじめに
今日のたとえは、イエス様がイスラエルの指導者に話された預言です。
王は王子の披露宴に招待した客を呼ぶために、自分のしもべたちを何度も遣わします。
王は神様。王子はイエス様です。
3節のしもべは、旧約の預言者。4節の別のしもべは、新約の弟子たち。
招待は、旧約聖書のメシヤ預言のことです。
メシヤとはキリストのこと。
つまり、招待状に書かれていた通り、約束のキリストが来られました!
神の国の実現を、結婚式にたとえているのです。
でも、ある人たちは無視し、ある人たちは、王が遣わしたしもべたちを殺します。
それで王はその殺人者たちを滅ぼし、しもべに大通りに行かせ、出会った者をみな宴会に招きます。
このたとえは成就しました。
神の国の民として特別に選ばれていましたイスラエルは、イエスがキリストであることを拒否し、7節のようにエルサレムはAD70年にローマに焼かれてしまいます。
そして、神の国の招待はイスラエルから異邦人に広がって行ったのです。
もちろん、イスラエルの選びが、異邦人にとって代わったということではありません。
しかし、異邦人が、クリスマスを祝うのも、今日の箇所を見れば納得がいきます。
異邦人にイエスさまの福音が広がったのです。
あと少しでクリスマスですが、みなさん楽しみですね。
うちには二人の居候がいるので、私は生まれて初めてクリスマスツリーを買いました。
ニトリで3000円でした。
お値段以上です。
クリスマスとは何をお祝いするのでしょうか?
クリスマスは、ニトリで買ったクリスマスツリーを飾る日だけではありません。
ケンタッキーフライドチキン6ピースポテトパックを食べる日だけでもありません。
もちろん、食べたい人は、是非食べてください。僕も大好きです。
クリスマス。それは、招待状(聖書)に書かれていた通り、約束のキリストが来られた!ということをお祝いする日です。
キリストが来られたことが、そんなに嬉しいのか?
嬉しいとかじゃなくて、人生が変わります。
いるのかいないのかわからない遠く離れた神ではなく、生きておられ、今も私たちの人生の只中におられる神との出会い。
人生に意味と活力と希望を与えるのです。
すべての人がこの素晴らしいイエスさまの招待を受けているのに、今日のたとえでは、2種類の人が出てきます。
①招待されたのに、断る人。
②招待されたのに、追い出される人。
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①招待されたのに、断る人。
王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
聖書(マタイ22:3)
何度、招待しても、彼らは拒みました。
3節にあるように、「来たがらなかったのです」
当時の正式な招待は2度に分けて、なされていました。
1度目の招待を受けておきながら〈時刻になった〉時になされる2度目の招待を断るのは非常に無礼なことでした。
しかも、一国の王子の披露宴は、数日にも及ぶ、国をあげた行事です。
断るなんて考えられません。
ではなぜ断ったのでしょうか?
4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
聖書(マタイ22:4-5)
5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
畑仕事や、商売で忙しく、気にもかける暇もなかったからです。
同じ内容が載っている、ルカの福音書にはこのようにあります。
18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。』
聖書(ルカ14:18-20)
19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。』
20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
断った理由は様々ですが、どれも理由になっていません。
畑も牛もは買う前に見に行くもの、まして〈買った〉のなら宴会後にでも見に行けます。
3人目の人は、新婚生活を理由に断っていますが、これは申命記24:5に書いています。
「新婚さんは、1年間妻を喜ばせるために義務を負わせてはいけない」と。
しかし、披露宴は長くて数日ですので理由になっていません。
何が原因か?
それは、結局、イエスさま以上に、ほかの何かに忙しくなっているということです。
頭では、イエスさま一番かもしれません。
でも、実際の生活は、「イエスさま?ちょっと、ごめんなさい。今、仕事がいい感じなんです。もう少し、時間をください」
このイスラエルの人々が忘れていた肝心なことは、彼らがこの披露宴の新婦でもあることです。
イエスさまは、私たちが仕事をすることが嫌なのではなく、
イエスさまの披露宴には、新婦である私たちが必要なのです。
イエスさまは、私たちが新郎であるイエスさまご自身を求めることを望んでおられるのです。
②招待されたのに、追い出される人。
8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
聖書(マタイ22:9-10)
9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
イスラエルがメシアを拒否したので、神の国の招待は、異邦人に及びました。
そして、その異邦人の表現が強烈です。
それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
聖書(マタイ22:10)
良い人でも悪い人でも招かれるようになりました。
これは、私たちの中に良い人と、悪い人がいるという意味ではありません。
ヘブライ的には、良い人はイエス様を拒まなかったユダヤ人で、悪い人は異邦人であるとも言えるのです。
私たちが偉いから招かれたのではありません。
私たちは、おこぼれで招かれたのです。
しかし、その中でも追い出される人がいるというのです。
それは、礼服を着ていない人です。
11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
聖書(マタイ22:11-14)
12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。
14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
礼服とは何を表しているのでしょう?
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
聖書(黙示録19:8)
聖書から見ると、正しい行いをしている人です。
行い?
行いによる救い?そんなはずはない。
同じ黙示録の、もう少し前を見てみましょう。
13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
聖書(黙示録7:13-14)
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
礼服を来ている人とは、イエス様の血によってきよめられた衣を着ている人です。
正しい行いをしたから、礼服を着させられるのではなく、
礼服を着させられたので、正しく歩めるのです。
誰でも彼でも、招待されるようになりました。
しかし、終わりの日に、必ず明らかになるのです。
イエス様の血によってきよめられた衣を着ているかどうか。
良い行いをたくさんしていても、自分はそこまで罪人ではないと思っていても、はたまた教会には何とか通っていても、
イエス様の血で洗われた衣を着ていなければ、追い出されるのです。
招待されて、応じれば何をしても良いのではないのです。
何でもありではないのです。
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
聖書(マタイ22:14)
イエス様の血で洗われた衣を着るとは?
「イエス様の血で洗われた衣を着る」とは何でしょう?
神であられる方が人のかたちをとって、メシアとして地上に来られ、十字架にかかり、流された血潮により、もたらされた罪の赦しを受け入れることです。
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
聖書(エペソ人への手紙 1章7節)
そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
聖書(マタイ22:6)
今日の箇所を見るならば、このイエス様を私たち人間が殺したと思いますが、実はイエス様にご計画があったのです。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
聖書(ヨハネ10:15)
イエス様は、羊のために命捨てる牧者。
つまり、イエスさまは、私たちのために礼服を用意するために、自ら死なれたのです。
まとめ
①招待されたのに、断る人。
②招待されたのに、追い出される人。
このどちらも私たち人間の側に問題があります。
私たちは、どうすればいいのか?
イエスさまです。
私たちを待っておられる新郎なるイエスさまのもとに行くのです。
クリスマスは、イエスさまの招待をもう一度覚える時ではないでしょうか?
「いまは他のことで忙しい!」そう感じている人。
イエスさまの御前に出たのはいつのことか、考えてみましょう。
また、招待に応じたから、自分はイエス様を信じているから大丈夫だという方。
本当に礼服を来ていますか?
自分の救いが何を持って大丈夫なのか、どこに根拠がありますか?
はっきり、こたえられますか?
クリスマスに来られたイエス様。
このお方の血潮です。
この衣を着ているのものたちは、決して追い出されることはありません。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
聖書(黙示録7:14-17)
15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」