はじめに
2017年11月にエルサレムで宿泊していた場所からベンヒノムの谷が見えました。
またの名をゲヘナ。
ベンヒノムの谷では、エルサレムのゴミ、排泄物も燃やされましたし、罪人や行き倒れた者の遺体とかも燃やされていました。
なので、常にゴミが燃やされ、煙が尽きない場所となりました。
なので、このゲヘナの火のイメージが、私たちの地獄のイメージにつながっているのです。
なぜ、ここがゴミ捨て場になったかというと、南ユダで大規模な宗教改革をおこなったヨシヤ王が、偶像崇拝を根絶する為に、あえてこの場所をゴミ捨て場としたからです。
そのヨシア王が根絶した偶像礼拝こそが、今日の箇所でアハズ王が行なったものです。
彼は、ベン・ヒノムの谷で香をたき、【主】がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもたちに火の中をくぐらせた。
2歴代誌28:3
火の中をくぐらせたとは、火で焼いて捧げた。という意味です。
しかも、それは自分の子供と書いています。
これは、モレクという偶像崇拝ですし、律法で禁止されている通り、神様がどれほど悲しまれる行為か想像するのに難しくありません。
アハズは他にも、バアル崇拝、アシェラ崇拝をユダに広めた、歴代誌最悪の王です。
実は、列王記はマナセ王を最悪な王として書いていますが、歴代誌ではこのアハズです。
なぜか?
50年以上偶像礼拝を行なったマナセ王は、捕虜になってから自分の罪に気づき悔い改めました。
しかし、アハズ王は最後まで悔い改めなかったからです。
そして、今日注目したいのが、このアハズという歴代誌最悪の王にも、神様が悔い改めのチャンスを何度も与えていたという事実です。
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神様は、アハズに次の二つのことを通して、悔い改めるチャンスを与えました。
①苦難を通して、悔い改めるチャンスを与えた
偶像礼拝を犯したアハズのせいで、アラム・イスラエル連合軍が、南ユダをめちゃくちゃにします。
6-8節に書いてある通り、一日に12万人が虐殺され、女性や子供20万人が捕虜にされ、所有物も奪われました。
彼の神、【主】は、彼をアラムの王の手に渡されたので、彼らは彼を打ち、彼のところから多くのとりこを捕らえて行き、ダマスコへ帰った。彼はイスラエルの王の手にも渡されたので、イスラエルの王は彼を打って大損害を与えた。
聖書(2歴代誌28:5)
5節の通り、「彼の神、主は」とあるので、これは、アハブを罪から立ち帰らせるために、神様が許された愛のムチでした。
しかし、アハズは悔い改めませんでした。
その時、アハズ王はアッシリヤの王たちに人を遣わして、助けを求めた。
聖書(2歴代誌28:16)
神様ではなく、アッシリヤに助けを求めました。
そのため、神様はさらなる災害をアハズと南ユダに下します。
・エドムの侵略 17
・ペリシテの侵略 18
そして、彼が頼りにしていたアッシリヤにさえも、裏切られることとなります。
アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルは、彼を攻め、彼を悩ました。彼の力にはならなかった。
聖書(2歴代誌28:20)
神様でさえ、思ったことでしょう。
「今度こそ、アハズは悔い改め、私に帰ってくるだろう。」
しかし、
アッシリヤの王が彼を悩ましたとき、このアハズ王は、ますます【主】に対して不信の罪を犯した。
聖書(2歴代誌28:22)
もし、私たちの人生に苦難が襲った時、「神様がこのことを通して、私に語りたいこと、教えたいことは何だろう?」と謙遜に受け止め、神様との会話が生まれるなら、それは幸いです。
実はこの歴代誌のストーリーには、サイドストーリーがあります。
どこ?列王記?その通り。でも、イザヤ書にもあるのです。
神様は、このアハズ王に対して、預言者イザヤを通してもメッセージを語っていました。
②みことばを通して、悔い改めるチャンスを与えた。
1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。
聖書(イザヤ7:1-4)
2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。
3 そこで【主】はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、
4 そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。
神様、ヤバすぎです!
イケメンすぎです。
あんな最悪なアハズ王に、「揺らぐな。恐るな。雄々しくあれ。わたしのみことばを信じれば大丈夫だから!」と励ましているんです。
つまりこういうことです。
「わたしに信頼せよ。そうすれば、わたしはあなたを絶対に助ける!」
しかも、神様は、不信仰なアハズを見透かして、さらなる助け船を出します。
10 【主】は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
聖書(イザヤ7:10-11)
11 「あなたの神、【主】から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
信じれないなら、目に見える、しるしも求めよ。
それも私は与えるから。
アハズの反応
しかし、アハズは?
それでも、神様を拒否しました。
するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」
聖書(イザヤ7:12)
これは一見、神を試さないという意味では信仰的ですが、実際はただの不従順です。
モレク崇拝は、性的な儀式が伴っており、聖書に名指しで禁止されています。
なので、私たちは、こんなにも頑ななアハズを見て、なぜ彼が偶像礼拝をやめて悔い改めないのか不思議に思います。
しかも、アハズの悔い改めは、私たちと全く関係ないようにすら思えます。
アハズとは私?
ここまでのメッセージを聞いて、「私はアハズのように悔い改めが必要なのか?」と問いてみても、イマイチぴんと来ないのではないでしょうか?
だって、アハズのように、偶像礼拝なんて絶対にしないだろうし、子供を捧げるなんてありえない。
しかし、実は、私たちとアハズには共通点があるのです。
偶像礼拝とは、昔のホコリかぶった神話の世界の話ではなくて、現代を生きる私たちにとっても、とても身近なものだからです。
子供を捧げる偶像礼拝
ちょっと、考えてみましょう。
この子どもを捧げるという行為は、現代では到底、受け入れられる内容ではありません。
しかし、科学の発達していない時代、天候や疫病は予測、対策が容易ではなかった為、神頼みになる傾向は有ったでしょう。
だって、雨が降らなかったら、家族が食べられなくなるんです。
基本的に供え物とは、神様に失礼の無いように、最も清く、大切なものを捧げるはずです。
なので、人間的観点から見た場合、純粋で無邪気な子ども、それも、我が子を捧げるのは神様に対する最高の誠意だった可能性があるのです。
つまり、本人に悪気がない場合があるのです。
正確にいうなら、それが偶像礼拝だと気づいていないかもしれないとうこと。
日本でも「人柱(ひとばしら)」や「生贄」の風習は有ったと言われています。
※橋・堤防・城などを築くときに,工事の完成を祈り、神々の心を和らげるために,犠牲として人を水底や地中に生き埋めにすること。
このような風習には、一人の命によって、大多数の命を助けようという善の動機が基本に有ります。
つまり、バアル、アシラ、モレク等を信じていた人達は、自分達が「悪魔崇拝」をしているという意識は無かった可能性だってあるのです。
もちろん、聖書はいかなる理由であっても偶像礼拝を禁止しているので、弁明の余地はありません。
現代版、子供を捧げるとは?
現代を生きる私たちに置き換えて考えてみましょう。
家族を助けるために、この仕事だけは必ず成功させるんだ。
仕事をクビになったらどうやって養うんだ。給料が減ったらローンだって払えないし、無責任じゃないか。
全然、悪い人に思えません。
しかし、日本では家族を経済的に休めるために、父親がずっと仕事をして、結果的に子供との時間が犠牲になる場合もあります。
善なる動機であっても仕事が偶像となり、家族が犠牲になるならば、これは形は違えど、一種のモレク崇拝とも言えるのではないでしょうか?
ポイントは、ここにいる私たちが偶像礼拝していることに気づいていないという可能性は往々にしてあるということです。
お金、仕事、家族、恋人、将来、安定…、全てのものは良いものですが、偶像になる可能性があります。
全ては神の国とその義とをまず第一に求めた結果、神から与えられるものだからです。
気づいていないなら、苦難を通っても、もっと頑なになる可能性があります。
みことばを読んでいても、悟れない可能性があるのです。
見捨てない神
苦難を通っても、預言者に指摘されても、自分の罪の深刻さに悲しまず、一向に悔い改めないアハズ王。
そんなアハズ王を神様は、見捨てたのでしょうか?
いいえ。神様は絶対、諦めないのです。
続けてイザヤ書を見てみましょう。
12 するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」
聖書(イザヤ7:12-14)
13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
なんと、このイザヤ7章は、有名なクリスマスの箇所、インマヌエルなる救い主がお生まれになる預言へとつながるのです。
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味。)
「誰も自分の罪に気づかない。悟らない。反省しない。悔い改めて、神を求めることをしない」
そんな状況でも、契約を守られる神様はイエス様を送ることを一方的に決めるのです。
不信仰のイスラエルや私たちのために、その不従順の罪を一身に背負い、神の前に代わりに悔い改める真の王として。
苦難で苦しい。これは自分の不甲斐なさ、弱さに打ちひしがれた時、
苦難をも共に通ってくださるインマヌエルなるイエス様が隣にいることに気づくのです。
聖書のみことばが心に入ってこなくても、道を失ったように思ったとしても、
みことばによって導いてくださるインマヌエルなるイエス様が心の中にいることに気づくのです。
その時、私たちの人生に救いの力が現れるのです。
まとめ
今日、神様が私たちに求めるのは「悔い改め」ではないでしょうか。
自分が自覚できる具体的な罪を犯したから、「ごめんなさい、もうしません」という悔い改めもありますが、
人生の土台そのものが揺らぐ状況であっても、「神を信頼しない」、「神に叫ばない、祈らない」自分を悔い改めること。
そして、人生の土台そのものが揺らぐ状況に追い込まれなければ気づかない、私のようなタチの悪い高慢と、鈍感さこそが、罪の本質なのではないでしょうか。
今日、このお方の前に出て、心に光を当ててもらいましょう。
気づかないで犯している罪はないか?
形を変えた偶像礼拝をしてしまってはないか?
気づきが与えられるように。
通っている苦しみに焦点を当てるのではなく、それを通して神様が聞かせたいこと、見せたいもの。
心のガードを取り除いて、耳もとでささやくみことばに、耳を傾けていきたいと思います。