はじめに
銀行員時代、他の会社の社長と会うときが多々ありました。
身なりを整え、丁寧な言動を心がける。
それ以上に大切なのが、面談までに、ちゃんとしたステップを踏むということです。
アポを何段階か取ります。菓子折りを用意します。
また誰と行くかも重要でした。
相手が中小企業の社長なら、こっちは課長クラス
企業の規模よっては、支店長に同行してもらいます。
私たちが神様に近づくとき、このようなステップは必要でしょうか?
よくよく考えると、私たちが「主よ」とか、「イエス様」とか読んでいる神様は、全世界を一瞬で無くせるほどの力のある神です。
この神と、北海道の中小企業の社長のどっちが偉いかは言わなくてもわかります。
では、神様と会うには、相応の菓子折りが必要なのでしょうか?
セイコーマートで買うのではなくて、三越で買わなければならない?
神様に会う為には菓子折りは必要ありません。
しかし、神様に近づくためにも、適切な方法があることが聖書を見てわかります。
「方法」という言葉に違和感を感じる方、とりあえず、そのままついて来てください。
ダビデは、1歴代誌13章で、主の箱をエルサレムに運び上ることを実行します。
しかし、神の箱を担いでいた牛がひっくり返しそうになったので、近くにいたウザがそれを抑えようとし、ウザが死んだのです。
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ウザの失敗
何が悪かったのでしょうか?
ウザの心の持ちよう?そうかもしれない。
でも、今日の箇所を見ると、はっきりと理由が書いてあります。
最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、【主】が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」
聖書(1歴代誌 15:13)
ダビデの問題は、ふさわしい方法で、神に近づかなったということです。
ウザが死んでから、今回の15章まで、時間にすると3か月。
その間、ダビデは自らを省み、 一体何が間違っていたのかを調べました。
何によって?
律法によってです。
律法が教える神に近づくために必要な2つのこと
律法には、神に近づくために必要な二つのことが書かれていました。
一つ目は、
①レビ人でなければ契約の箱をかついではならない
2 そのとき、ダビデは言った。「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。【主】は、【主】の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」
このダビデのことばと、サムエル記を注意深く読めば、そして神の箱を運搬し、死んだウザがレビ人ではなかったことが濃厚であることがわかります。
律法には、このように書かれています。
そのとき、【主】はレビ部族をえり分けて、【主】の契約の箱を運び、【主】の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。
聖書(申命記10:8)
しかも、レビ族の中でも、ケハテ族でなければ、契約の箱をかついではいけませんでした。
宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族が入って来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。
聖書(民数記4:15)
神に近づくために必要な二つ目のことは、
②レビ人は身を聖別しなければならない
13 最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、【主】が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」
聖書(1歴代誌 15:13-14)
14 そこで、祭司たちとレビ人たちは、イスラエルの神、【主】の箱を運び上るために身を聖別した。
「 聖別」とは、 国々の神々を取り除き、身を洗い 、衣服を洗い、女性を近づけない、などのことです。
それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。
聖書(創世記35:2)
14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。
聖書(出エジプト19:14-15)
15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」
2つのことからわかる大切なこと
この二つのことからわかる、大切なことは何でしょう?
それは、律法にはっきりと、神に近づくために必要な手順が書かれているということです。
情熱と喜びがあれば、多少違っても、いいだろう。
それでは不十分だということです。
実際、ウザは死にました。
神が見えないからといって軽んじてはいけません。
じゃあ、ダビデは軽んじていたのか?
そんな気はしない。
しかし、実際の行動は軽んじていた。
ダビデの方法は、見せかけの敬虔さを表すものだったのです。
ダビデは新しい車を用意しました。
しかし、神の箱を牛車に載せて運ぶという方法は、ペリシテ人のまねでした。
私たちが、神に近づくには?
では、私たちが、神に近づくにはどうすれば良いのでしょうか?
律法の手順を守り、身を聖別するということは、現代の私たちには、どういうことなのでしょうか?
私たちはレビ人ではないし、イスラエル人でもありません。
そして、神の箱もなければ、神がご自身の臨在を表すと約束されたこともありません。
本来は、そのような人たち。つまり異邦人は、神様の臨在には無関係なものでした。
しかし、私たちは、イスラエル人でもなければ、神の箱が与えれているわけでもないのに、神の臨在の中に入っていくことができます。
できますよね?
ここにも、神の臨在を経験している人がいるはずです。
どうやって?
イエス・キリストです。
神様に近づくのに、菓子折りはいりませんが、当時、生贄は必要でした。
しかし、全人類の罪をきよめる、いけにえこそ、イエスさまご自身だったのです。
私たちは、イエス様の十字架の犠牲と、その血潮によって聖められ、神に大胆に近づくことができるのです!
だからこそ、臨在を感じ、言いようもない喜びが、異邦人だった私たちにも満ちるのです!
私は、毎日、この神の臨在に飢え渇いています。
神様の臨在がなければ、自慢じゃないけど生きていけません。
だから、毎朝、神の前に出るのです。
神様の臨在に浸ると、神への賛美、礼拝、そして神の御心が迫ってきます。
あえて、今日のメッセージのタイトルを、「神に近づく方法」としました。
決まった方法があるのか?
これさえすれば、心が伴っていなくても良いのか?
もちろん、そうではありません。
心が大事。
しかし、心があるだけでOKなのでしょうか?
ダビデがそうであったように、いくら情熱があっても、踊り喜んでも、神のきよさの前に人は死にます。
しかし、逆を言えば、私たちにどんな暗い過去があっても、どんな罪人であっても、どうしようもなくても、神に近づくことは可能なのです。
それは、信仰によって、イエス様のみことばを信じることです。
聖書には、イエス様の十字架の血潮によって、罪が洗い流されたと書いています。
どうやって、そのようなことが起こるのでしょうか?
イエス様は今いないのに、目でも見えないのに、血潮がかかった感覚ありますか?
そのまま信じるのです。
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
聖書(エペソ3:12)
神ご自身が、まず私たちに近づいてくださったから、私たちは信じるだけで良いのです。
まとめ
今日、みことばに立ち返りましょう。
聖書のみことばを、そのまま信じ、大胆にイエス様に近づきましょう。
ダビデが、律法に書いてあることを、神のことばと信じ、その通りにしたように。
私たちも、聖書のみことば、イエス様のみことばを信じ、その通りに神に近づきましょう。
信仰によって、イエス様のみことばを信じるならば、みことばに書いてあるように、私たちの心の底から、命の水が溢れ出し、はっきりと神が近くにおられることがわかるようになります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
聖書(1ペテロ1:8)