今回は、神様に「お前は知らない」と言われないためには? マタイの福音書7章21節の意味について、聖書にどのように書かれているのか説明していきます。
このクリスチャンQ&Aシリーズでは、クリスチャンに関わる素朴な疑問から、少しディープな問題、普段はなかなか聞きにくい内容…等について、洗礼を受けて4年のこうきさんがゆうき牧師に質問をしていき、聖書をもとにわかりやすく解説していくシリーズとなっています。
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今回は、「神さまに、お前は知らないと言われないためには?」というテーマです。
神様に、お前は知らないと言われてしまう!?
まずは、マタイの福音書7章21節を読みます。
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
聖書(マタイの福音書 7章21節)
この箇所を受けて、今回の質問は「行いのない信仰を続けていくと最後には主に『知らない』と言われてしまうのか不安になり、お聞きしました。ある牧師さんは、正しい福音と間違った福音があると言っていました。」という質問です。
こうきさんは、どう思いますか? 「お前知らない」と、神様は言われると思いますか?
「『主よ主よ』という者がみんな天の御国に入るのではなく御心を行うものが入るのです」と書いてあるので、この箇所だけで言うと、御心を行うものしか入れない、「知らない」と神さまに言われてしまうことになるなぁと思いました。
口先だけで言っていて、心では全然信仰してないという人はダメですよ! ということなのかなと? 思いました。
この質問をしてる時点で、この質問の方は御心を行っているように思いました。
では、自分の中に、神様への心があればいいと思いますか?
行いはどうでしょう?(意地悪な質問ですよね)
御心があったら、行いも自ずと出てくるんじゃないでしょうか?
御心があったらって、どういうことでしょう?
御心を行わなくても、気持ちがあれば、神さまに向かっていれば大丈夫でしょうか?
そこに行いがなくても?
いえ、それはダメですね。
行いは、自分はできてるなぁと思いますか?
そう言われると…自分は、できてない感じがします。
これは、結構深い質問かもしれないですね。
面と向かって、御心を行えてますか? と言われると、できてますとは言えないです。罪も犯しちゃうし、クリスチャンになっても。
そうなると「お前は知らない」って最後は言われちゃうってことでしょうか!?
どうでしょうか? こうきさんは、救いの確信はないですか?
いえ、救われている確信はあります。
救われてるんだけども、行いがなくて「お前知らない」って言われる可能性は、あるってことですか?
マタイの福音書7章23節には、このように書いてますよね。
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
聖書(マタイの福音書 7章23節)
なんだか、わからなくなってきました!
わからなくなるような、難しい質問ですね。
まず、イエスさまを信じていれば救われて、神様から「知らない」と言われない、というのは他の箇所でたくさん出てくるので、まず大丈夫です。
じゃあこの箇所の意図は何か? というのをきちんと見ないといけませんね。
「不法を行う者」とは?
ここでは、「主よ主よ」って口先だけで心の中では信じていない人のことを話していますよね。
『不法を行う者』についてですが、僕らは以前は不法を行っていたんだけれど、イエスさまが罪を背負って赦してくださったことによって、僕らは義とされているので、今は不法を行う者ではないです。
ここでは、本当に口先だけで何も信じてないのに「主よ主よ」と言っている人のことを『不法を行う者』と言っています。
おっしゃった通り、この質問者の人は心でイエスさまを信じていると思うので、大丈夫です。
天におられるわたしの父の御心を行うものが入る、とは書いていますが、僕らは御心を行っていると100%言えない部分があるのは事実ですよね。
じゃあ僕らは天国に入れないのか? というと、そうではありません。
僕らは「行い」によって天国に入れるわけではなく、イエスさまの正しさによって天国に入ることができるからです。
でも、今日の箇所では御心を行なわないと入れないような書き方をしています。
これはどういうことかと言うと、救われて「新生」していれば聖霊によって御心を行うことが可能になる、という意味です。
新生していたら御心を行える
なので御心100%、完璧に行えるか? ということをここで言ってるのではありません。
イエスさまを信じ、聖霊が与えられて、神さまの御心、神さまの思いを感じることができて、そのベクトルに向かって進めているかどうか? ということです。
神を愛し、人を愛するという方向に生きているというのが神の御心です。それを行なっているかどうか? ということですね。
でも人間は完璧ではないので、神の御心を行おうとしても、失敗してしまうときもあります。
「神さまを愛し、隣人を愛するというのを私は聖霊の力によってやっていきたいです」という思いがあるかどうか? その思いがあるということは、救われてる証です。
これは聖霊の働きのひとつですが、聖霊がそういった思いを与えます。聖霊がいないとその思いが起こらないので、それは救われている証なんです。御心にかなった行いや思いは、救われていない人からは出ません。
何をするかしないか、というよりも、神を愛し隣人を愛するというのが御心です。愛そうとしてるか、心の中でそういう風に思えているかどうかというのが、神様の見ておられるところです。
人を傷つけてしまったり、失敗するときはあります。そのときは、神様に悔い改めて、祈るんです。
イエスさまの福音によって救われているという土台があるので、僕らの行いでその救いが落ちることはありません。でも落ちそうになるときがある、その時は悔い改めて神さまのもとに立ち返りましょう。
ただ、新生していない人もいます。
「新生」って、新しく生まれ変わることですね。本当に救われてるかどうか? ということです。
口でイエスさまを信じますと言えば救われると聖書に書いているんですが、嘘で言う人もいるじゃないですか。神の目から見れば、その人は全然信じていないですよね。
教会の中にも、ときにはいるかもしれません。牧師も気づかず、人を欺いている人もいるかもしれない。
本当は信じたくないし、全く心では信じていない、口だけで言ってる人もいるかもしれない。
信じたい思いが0%ということですか?
はい、信じていない人がいる可能性はあります。口では「主よ主よ」と言っていたとしても。
これは人間には分からないですが、神さまが見たら分かります。
そういう人は、人間は騙せても、神さまから「私は知ってるよ、あなたは信じてないでしょ」と言われます。神は欺けないということです。
話は戻りますが、「私、大丈夫でしょうか?」という人は大丈夫です。神を欺こうとは思っていないですから。
その不安や質問が出てくる時点で、神さまに向いてるってことですよね。
そういうことです。
ただ、不安な思いや「大丈夫でしょうか?」というところにずっと留まる必要もありません。
「私は、神さまを信じてます、大丈夫です!」と宣言してください。その理由は、ローマ人への手紙10章9節にあります。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
聖書(ローマ人への手紙 10章9節)
口で告白して心で信じれば、義と認められると書いてありますので「私は救われています!信じています、大丈夫です」と、宣言してください。それでOKです。
いつも不安になるのがクリスチャンの正しい姿ではありません。聖書にこう書いてるから、私は救われてますと、言いきれれば良いのです。
まとめ
Q . 神様に「お前は知らない」と言われないためには? マタイの福音書7章21節の意味は?
A .この箇所では、100%御心を行なえているかどうかを問われているのではありません。
口先だけで全く神さまを信じてない人に対して、神さまはその心を見ておられます。
日々神さまに悔い改めたり、神さまを愛し隣人を愛すことを目指している人は、御心を行っているとして、神さまから知らないとは言われません。
私たちは聖霊に満たされれば、御心を行うことができるようになります。そこを目指していきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。このメッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。