朝起きて身支度をして朝ごはんを食べて、いつもと変わらぬ道を歩いて電車に乗り、また同じ道を歩いて帰ってくる日々。
テレビやゲームやSNSなど、なんとなく過ごしているうちに1日があっという間に終わり、また明日から同じことの繰り返し。
しかし、忙しいとき、思い切って外で散歩をしてみたら、道端に咲いている花の美しさに気づくことがあります。
花は変わらずに咲いていたのに、私たちに余裕がないので、普段、道端に咲いている花を見ることはありません。
聖書に出てくるモーセは、退屈な荒野での生活で神様に出会いました。
すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
聖書(出エジプト記3:2)
モーセは神に出会うために熱心に祈っていたわけでもなく、心の準備があったわけでもありませんでした。
日常の仕事中に、荒野の奥で、燃える柴を見たのです。
「主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた」とあるので、モーセが天使に会ったようにも取れますが、ほとんどの神学者は神に出会ったと解釈しています。
旧約聖書には、神様が人間にわかる形で会われる場面が出てきます。
例えば、自然現象の中で。
主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
聖書(出エジプト記13:21)主は嵐の中からヨブに答えられた。 聖書(ヨブ記38:1)
人としての姿で現れることもあります。
主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。
聖書(創世記18:1)
しかし、新約聖書にはこのような形で神様が現れたことはありません。
なぜなら、イエス・キリストが受肉されて、人としてこの世界に現れてくださったからです。
では、燃える柴を見たモーセは、どのように反応したのでしょうか?
モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
聖書(出エジプト記3:3)
彼は、燃える柴に近づいて行ったのです。
ここから学べることは、「忙しいと神の存在に気づかない」ことがあるということです。
聖書を見れば、当時のモーセの人生は、エジプトの生活と比べたら、羊を飼うだけの退屈な日々でした。
しかし、彼が神に会ったのは、エジプトにいた時ではなく、何もない荒野の退屈なときだったのです。
「神がいるなら出てこい」という人もいますが、神が現れないのではなく、私たちに余裕がなく、気づいていない可能性が多いにあるのです。
あなたが、もし、今、道端の花の存在に気づかないくらい忙しいなら、神様の存在にも気づかないくらい余裕がない可能性があります。
その時は、外を散歩して、神の造られた自然に目を向ける余裕が必要です。
あなたが、もし、今、人生が退屈だと感じているなら、逆に神に出会うチャンスかもしれませんが、もう一歩必要です。
自分に近づいてくださる神の存在を少しでも察知したなら、神に近づく勇気です。
神に出会う方法は私たちにはわかりません。
しかし、神の存在に心を開き、求める気持ちがあるなら、私たちは神に出会うことができるのです。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
聖書(ヘブル書11:6)