クリスチャンの口から「私は信仰がありません」と聞くことがあります。
もし、この言葉が事実なら、その人はクリスチャンではありません。
なぜなら、クリスチャンは、キリストが私の罪のために身代わりになって十字架で死なれ、3日後によみがえったことを信じた人だからです。
「とりあえず」信じた。「よくわかんないけど」信じた。
そんな人が大半でしょう。
そんなんでいいのかよ?と思いたくなりますが、信じるとはそういうものです。
信じた後に、それが事実であることを体験し、確信に変わっていくからです。
「私は信仰がありません」という言葉の真意は、「信仰が弱い」「確信がない」ということだと思います。
キリストは、からし種ほどの小さい信仰があれば、木が海に入ると言いました。
5 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」
聖書(ルカの福音書17:5-6)
6 すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。
ここから二つのことがわかります。
①私たちの信仰はからし種以下
からし種とは、あらゆる種よりも小さい種です。
ごま粒よりも小さいですが、ごま粒の方が日本人にはわかりやすいでしょう。
たとえ、それくらい小さな信仰があっただけで、桑の木を海に移せるのです。
この桑の木は約10メートルほどにまで育ち、深く広く根を下ろします。
なので、木の周辺には水溜りができにくくなり、このような木を根こそぎ海の中に植えてそこで育たせることは、 どう考えても不可能です。
私はかつて、信じるだけで、木を海に投げ込んだ人を見たことはありません。
YouTubeで、「じゃあ今から、あの木を信仰で動かします!」と宣言してやってみせる自信は、僕にはありません。
つまり、私たちが持っている信仰は事実、からし種以下です。
②からし種以下の信仰でも大丈夫
ここで、イエス様が言いたかったことは、からし種の信仰を目指せということではありません。
信仰は大きさや量ではなく、あるかないかが重要だよということです。
あなたたちは、自分の信仰をパーセンテージで測るよね?
自分は10%だ。90%には到底難しいとか。
実際は、からし種の信仰、つまり1%すらもみんなないんだよ。
つまり、私たちの感覚で言えば、0.1%でもいい。0.0001%でもいいということなんです。
問題は、信じるかどうかです。
パーセンテージは、確信の話です。
もちろん、確信は強い方がいいでしょう。
モーセは、確信を持って信仰を働かせ、海を分けました。
では、なぜ、からし種以下の信仰でも大丈夫なのでしょうか?
それは、信仰でもっとも重要なことは、あなたの信仰の大きさではなく、あなたが信じる対象が重要であるからです。
私たちが0.00001%信じてたとしても、信じる対象の神は100%真実です。
もし、私たちが100%信じてたとしても、信じる対象が、嘘つきの詐欺師なら、確信が100%あっても、結果は騙されるでしょう。
「自分には信仰がない」と言わないでください。
0.1%でも十分。
信じる対象が、真実なら、神は私たちのごま粒以下の信仰に答えてくださるからです。