幸せな人とはどういう人でしょうか?
患者さん3000人以上の人生の最終段階に立ち会ったホスピス医、小澤竹俊さんの経験から言うと、自分の心に正直に生きている人だそうです。
確かに私たちの周りにも幸せそうな人って、自由な雰囲気がありますよね。
一方、ホスピスには最後までできない自分や周囲を責める人もいるそうです。
自分の心に正直に生きている人と、自分や周囲を責める人、何が違うのでしょうか?
それは、幸せそうな人は、過去も現在もひっくるめて「これでよい」そのままの自分を受け入れているということです。
一言で言えば、自分自身の過ちや欠点や他人を「ゆるせる」人です。
一方で、自分や周囲を責め続ける人は、「罪責感」によって自分や他人をゆるせないのです。
聖書は本当に幸せな人は、神様に赦され、罪責感から解放された人であると語っています。
幸いなことよ。その背きを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。
聖書(詩篇32:1-2)
この箇所には、幸いな人の2つの特徴が出てきます。
①背きを赦され、罪をおおわれた人
「背き」とは、神に背くこと。つまり、神がダメだよとしていることをしてしまうこと。
神がこうしなさいと言っていることができないことを意味します。
聖書ではそれを神に従わない自分勝手な行動や生き方。「不従順」とも言います。
それが、「罪をおおわれた」の罪です。
背きと罪は同じ意味と捉えて大丈夫です。
それが赦されると聞いてもピンときませんが、私たちは神が何を求めているのかを常に意識して生きているわけでもないし、そんなことを考えていると非常に疲れますよね。
意識したところで、口から悪い言葉をいっさい出さないとか、心で誰かに恨みを抱かないようにすることは不可能です。
つまり、私たちの誰もが無意識に神に背き、罪を犯しているのです。
それが覆われるとは、私たちが気づいていないレベルの背きや罪も、神は寛大にカバーして下さっているという意味です。
皆さんは「完璧主義」と聞くと、どんなイメージを持ちますか?
何が、ネガティブな雰囲気がありませんか?
ミスや失敗があれば自分を責め、他人に対して厳しく完璧を求める人を想像するからです。
なんか、友達になりたくない感じです。
良いものを求めようとする、完璧主義は良い結果を出すこともある一方、完璧の基準が曖昧で、人間は完璧にはなり得ないので結局どこかで、自分や他人をゆるせないなら、それはどのみち苦しくなります。
神は完璧ですが、完璧主義ではありません。
神様は、私たちに完璧を求めず、ゆるし、失敗をカバーしてくださるのです。
これを知るだけで、人生がかなり楽になります。
②主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人
霊に欺きがあるとは、どう言う意味でしょう?
罪責感を隠し持っている状態です。
私たちは何かしら、自分自身に後悔し、自分の行動に良心の呵責を覚えることがあります。
だれでも時計の針を戻してやり直したくなるような思い出があり、「あのとき、こうすればよかったのに」と思うような出来事があるものです。
その罪責感を否定し、押し殺し、言い訳をして正当化してみても解放されることはありません。
この罪責感を解消する方法は、神のゆるしを受け入れることしかありません。
私たちに完璧を求めず、ゆるし、失敗をカバーしてくださる神さまを信じ、肩の上にある重荷を下ろしましょう。