携挙が今年来たら、この世の仕事や努力してきたことが無駄になってしまうのでは?「携挙と努力」

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今回は、携挙が今年来たら、この世の仕事や努力してきたことが無駄になってしまうのでは?「携挙と努力」という疑問について、聖書にどのように書かれているのか説明していきます。

このクリスチャンQ&Aシリーズでは、クリスチャンに関わる素朴な疑問から、少しディープな問題、普段はなかなか聞きにくい内容…等について、洗礼を受けて4年のこうきさんがゆうき牧師に質問をしていき、聖書をもとにわかりやすく解説していくシリーズとなっています。

この記事の内容はYouTubeでも話しているので、よかったらYouTubeも見てくださいね!取り上げて欲しい疑問や話題があれば、ぜひYouTube動画のコメントでリクエストをお願いします。

携挙がすぐ来たら、今の努力は無駄になりませんか?

こうき
こうき

今日のテーマは「携挙と努力」です。質問をお読みします。

「聖書の疫病の記述から、携挙っていつきてもおかしくないと考えると、この世の仕事が無駄になってしまうのでは? と考えてしまいます。
特に私は、将来の進路を決める年なのですが、仕事が決まった直後に携挙があったら、その頑張りは何だったんだろうって思ってしまいます。
クリスチャンの方は、この世の努力が携挙によって無駄になってしまうと考えておられないのでしょうか?」


という質問です。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

こうきさんは、どう思いますか?

こうき
こうき

私は、無駄になるとは思っていないです。
この質問でいただいている方の頑張りとか努力というのは、何のためにしてるのか? というところがポイントだと思います。
私は、ノンクリスチャンだった頃と今とでは、その目的が違うなと思っています。

ノンクリスチャン時は、この世での繁栄とか成功とかのために、努力していました。
今は何のために頑張るかといったら、神の国と神の義を第一に求める、神の義というのは隣人を愛し、神を愛すということのために頑張っているし生きているということです。その手段として、就職だったり仕事があると思っています。

この質問の方の言うように、仕事が決まって明日携挙となっても、それまでの間に神の国と神の義を求めて行動していたのならOKだと思っています。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

神の国と神の義を求めていれば、携挙(携挙の意味は後で説明します)された後、いわゆる天国に行くとしたら、それは無駄じゃないということでしょうか?
神のために働いたことが評価されるんでしょうか?

こうき
こうき

神のためにこの世で働いたことは、天国でリワードとして与えられるのではないでしょうか。

携挙とは?

ゆうき牧師
ゆうき牧師

はい、そこがポイントだと思います。

まず「携挙」とは何かというと、クリスチャン用語です。聖書には確か「携挙」とそのままの言葉では書いていないはずです、英語ではraptureといいます。

テサロニケ人への手紙に、イエスさまを信じている人が世の終わりか、世の終わりの直前に天に引き上げられると書かれていて、そのことを携挙といいます

携挙の時期がいつなのか?艱難前なのか、艱難中なのか、艱難後に来るのか?という世の終わりについての難しい部分は、聖書解釈が分かれてます。
ただし、基本的に多くのクリスチャンは聖書に書かれていることなので、どこかの段階で天に引き上げられると信じています。

携挙されるというのは、つまり世の終わりはいつか必ず来る、みたいに考えればいいと思うんですが、そうなった時に「今までの努力は? せっかく努力していい会社にに就職できたのに、天国に行っちゃうの?」ということですよね。

結論:リワードがあるから、無駄にはなりません

ゆうき牧師
ゆうき牧師

結論、天国でリワード(報い)があるから、無駄にはなりません。
もしかすると、リワード(報い)の意味が分からない人が多いかもしれません。

今生きているこの世と、死後の天国を切り離して考えると、無駄のように感じるんです。しかし、聖書ではこの世と天国は繋がっています。
繋がっているから、神の御国のためにこの世で働くときに、天国で神さまからリワード、報いがあると考えられるんです。

人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
聖書(マタイの福音書 16章27節)

ゆうき牧師
ゆうき牧師

このように聖書に書いてあります。
これは、世の終わりにイエスさまが来ます、再臨されます。その時に、私たちの行いに応じてイエスさまは報いてくださる、と書いてある箇所です。
神さまはこの世での私たちの努力を評価してくださります。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
聖書(コリント人への手紙 第一  3章12〜15節)

ゆうき牧師
ゆうき牧師

これはどういう意味かというと、私たちはこの世で生きてる時、ある人は神さまのために、神の国と神の義のために、金のような働きをする。でも、ある人は自分の成功のためにやっている。
神さまの視点から見ると、自分の成功のためにやっていた人は、藁のようなもので人生の家を建てたと見えるんですね。火が降ってくるというのは比喩ですが、火が降れば全部なくなります。

私たちは今服を着ていますけど、死んだら服どころか、自分の肉体を置いて天国へ行きます。魂と霊だけが行くんです。
火が降ってきた時に、私たちが建ててたもの、天国に持って行けないものは全部燃えるという意味です。藁は燃えてしまいますよね、それは私たちにとっては、お金であったり成功かもしれませんが、天国に行ったら意味ないものだということです。

神さまのためにした働きは、永遠に残ります。神さまの目の中では、火が降っても金銀のように残るという意味なんです。その働きに応じて、神さまが報いを与えるということですね。

リワードがある人、ない人の違い

こうき
こうき

この箇所で、藁とか草で家を建てた人は、損害を受けて、家がなくなってしまいますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かると書かれていますよね。これってどういうことですか?

ゆうき牧師
ゆうき牧師

神さまを信じていれば、その人自身は天国には行けるということです。報いはないけど、救われます。

クリスチャンって、救いは無償のプレゼントで、努力はいらないと考えがちです。もちろん、その通りです。確かに、天国に行くためのチケットは無償であり、そこに人間の努力は関係ありません。
でも、天国に行った後の報いというのは、この世でどう生きたかによって決まります。

救いは無償です、努力はいりません。でも、リワード(報い)というのが救いの他にあって、それは僕らの生き方によって変わります。

死ぬ直前で信じるとリワードがないんです。「死ぬ直前に信じるわ」と言っている人は、この世で自分の好き勝手に藁で立てる家のような人生を送って、全部燃やされて、でも体だけが天国へ行く人です。

でも、永遠にこれからも神さまと天国で一緒にいるのに、もったいないですよね? この世でどのように生きるのかというのは、無関係ではないということなんです。
いつ携挙されようが、いつ天国に行こうが、今を神と人を愛するために生きていれば、タイミングは関係ありません。

だからこそ、イエスさまは明日のことまで心配しなくてよいと言われました。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
聖書(マタイの福音書 6章34節)

ゆうき牧師
ゆうき牧師

就職が決まってすぐに携挙されて、天国に行くのは残念だと思うのは、天国がどれほど素晴らしいかを実感していないからです。
あるいは、この世の方が素晴らしいと錯覚しているのかもしれません。確かにこの世は素晴らしいです。でも、天国はもっと素晴らしい。

逆に言えば、この世でとてつもない不幸に襲われた時、全く逆のこと言うかもしれません。「早く携挙してくれ!」と。
迫害下の中にあろうが、満足して生活していようが、その日その日を神さまと人のために生きてるかどうか? というのを毎日続けていくのが聖書的です。

まとめ

Q .携挙が今年来たら、この世の仕事や努力してきたことが無駄になってしまうのでは?
A .この世で神さまと隣人のために努力していることは、無駄にはなりません。携挙されたあと、天国で神さまからリワード(報い)があります。
 イエスさまが言ったように、明日のことを心配せず、今日できる努力を日々積み重ねていきたいですね。


最後まで読んでいただきありがとうございます。このメッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。

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