今回は、苦難のとき、自分の行動と神の導きはどこで線引きされるのか?という疑問について、聖書にどのように書かれているのか説明していきます。
このクリスチャンQ&Aシリーズでは、クリスチャンに関わる素朴な疑問から、少しディープな問題、普段はなかなか聞きにくい内容…等について、洗礼を受けて3年の筆者みずきがゆうき牧師に質問をしていき、聖書をもとにわかりやすく解説していくシリーズとなっています。
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今回の質問は何でしょうか?
今回の質問は、実際に札幌ガーデンチャーチに東京から足を運んで下さった方からの質問です。
礼拝後、メッセージで感じたことを分かち合う時間があるんですが、そこで質問してくださったことです。
その日のメッセージのテーマは「苦難」だったんですが、「自分が苦難を通っている時に、それを乗り越えるための行動は、自分の思いから来るものなのか? 神様の導きからその行動に向かってるのか? その線引きはどこなんですか?」という質問でした。
それは、苦難が起こる原因はなんですか? ということ?
原因というよりは、苦難の中に、今、自分がいる。そして、その苦難に立ち向かっていくのか? じっと待つのか? 祈ったり、誰かに助けてもらったり…色々な行動があると思うんですが…
つまり、自分の力でどれだけやるのか?神様にどれだけ委ねるかのバランスがわからないってことかな?
そうですね、そこが分からなくてつらい、という質問だったと思います。
苦難の中、どこまで自分で頑張って、どこから神様が助けてくれる?
みずきさんはどう思いますか?
苦難のとき、祈って神様に助けて下さいと求めますよね。それでも状況が変わらないと、どうしていいか分からなくて、がむしゃらに行動したりとか、逆にもう行動する気力も湧かないっていうのもあると思うんですよね、実際。
こういう時に、神様は自分に何を経験させようとしてるんだろう? 神様のみこころがわからない!って、私は思っていたんですよね。
聖書の箇所で気になるところがあって、ヨハネの福音書の14章27節なんですが、
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
聖書(ヨハネの福音書 14章27節)
「世が与えるのと同じようには与えません」ということは、楽な道に逃げるとか、なんとなく惰性で行ってしまうとか、周りの意見に流されてしまうみたいなのが、御心じゃないってことなのかな?と思いました。
「苦難なのに平安?どういうこと?」と、疑問に残る部分でもありました。
「苦難の中で平安がある」というのは、多分、僕らの一番の幸せです。
苦難が解決したら平安になるというよりも、一番良いのは「どんな苦難が来て、どんな状況に置かれても、心は揺さぶられない」というのが一番強くないですか?
荒れた船の中で、イエスさまが一緒に乗ってくださってるから自分は安心できる。大変な状況下だけど、心は平安だよね、ということですか?
そう、イエスさまは荒れた船で寝てたから。
難しいことですけれど、そうなるように苦難を通す、という目的でもあるんですよね。
今回の質問である「どこまで自分が頑張って、どこまで神様が助けてくれるのか?」というバランスの視点で言うならば、結論「両方です、答えなし」です。
結論、答えはありません
どこまで自分がやって、どこからは神様というのは、理論的に考えています。ただ、本来はこの二元論ではないんです。視点変える必要があります。
苦難の中で一番大切なのは、自分がどこまでやって神様はどこからかという線引きではなく、「神様との関係で考える」ことです。
線引きではなく、神様との関係が大切
苦難の中で一番大切なことは、苦難を乗り越えることや、苦難の中でも平安があることもそうなんですけども、「神様と苦難の中でどういう関係を持っているのか?」ということです。
なので、どちらかというと答えとしては、神様が一緒に船の中に人生の舵取りをしてくださっているので、安心だと、頭で分かっているだけじゃなく、そのように生きることができるぐらいに、神様との親密な関係を持っている状態が苦難の中で大切なことです。
それができるためには自分がどこまで行動すればいいのか?神様がどこまでやってくれるという次元ではないんですよね、関係性だから。
一緒に、二人三脚というか、一緒に乗り越える感覚ということですかね。
イエス様がおぶってくれているみたいな例えもよく聞きますけど。
イエスさまがおぶってくれる時もあるし、一緒に行こうぜって引っ張ってくれるときもあるかもしれないし、横で「お前ならできる」って見守ってくれてるかもしれないし。
そこは人によるんですよ。関係って相対的ですよね。関係は、人によって密度も違うし、種類も違います。
今そこを歩いてる人と「こんにちは、はじめまして」って言う関係と、僕とみずきさんの関係は、全然違いますよね。同じ人でも、人によって関係性が変わります。
大切なのは、あなたとイエス・キリストの関係がどれだけ深いかということと、僕とイエス・キリストの関係がどれだけ深いかとは関係ないということです。
その人自身がイエス様と築いていくものです。
イエス様との関係、聖書の中ではイエスさまを友とも書いてるので、友情だったり父と子との関係だったり、様々です。
そして、信頼関係は、苦難を通して磨かれるものでもあるんですよね。
苦難を通して磨かれる関係性
苦難がないと関係性が深まらない場合もあるということですね。
そうです。世にあっては苦難がありますと、聖書に書いてありますので、苦難を通してもっと関係が深まるということもありますね。
特に、僕らはイエスさまに頼る側なので、苦難の時に「自分の力で頑張っている」手を外されて、「お金が全てだ」と思っている手を外されて、もう苦難でどうしていいかわからないと追い込まれた状況で、神様の手を握れるか?ということです。
神様の手を握って助け出される経験があれば、次に来た試練に耐えられる力が生まれるんですよね。
伝わっているでしょうか?
わかります。自分がここまで頑張る、神様がここからはやってくれるという問題ではなく、関係性の中で、自分が努力する姿を神様が応援してくれるのかもしれないし、お前ならできるって任せてくれるのか、ここは助けてあげるよって神様が助けてくれるのか。
場合にも人にもよるし、それは苦難を通して神様と自分の関係でわかっていくことなんでしょうね。
なので今の段階で、例えばみずきさんは今、苦難通っていますよね。僕も相談を受けて、アドバイスはできる。ただ僕とはケースが違うから、僕のアドバイスが全部みずきさんに同じようには当てはまらないですよね。
そうですよね。それは、ゆうき先生と神様の関係、私と神様の関係がそれぞれにあって、ゆうき先生はこのように乗り越えてきた、ということがあっても、私が全く同じ道を通るわけじゃないってことですね。
そうですね。関係性というのは人それぞれによって違うので、正解がないし、方法がない。人それぞれケースによって違うんですよね。
まとめ
Q.苦難の時、自分の行動と神の導きがどこで線引きされるのか?
A.線引きがあって、ここからは私がやってここから神様という次元の話ではありません。そこには答えはなく、神様と自分との関係によって苦難を経験したり、逆に経験しない人もいるし、乗り越え方も千差万別です。
聖書の中で大切にしているのは、神様との関係性です。そこを論理で物事を考えたり計算しようとすると、おかしくなります。
聖書は、神様との愛の関係を語っています。
時間もかかるだろうし、失敗するかもしれないし、途中でわからなくなって神様に怒りをぶつけることもあるかもしれません。
しかし、それで関係が切れるわけではありません。放蕩息子との関係のようにまた離れて、でも戻ってきて悔い改めて、もっと絆が深まる。
人と比べることじゃない、この関係性の原則というのをぜひ覚えて、信仰生活を送っていけたら良いなと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。このメッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。