宗教とは何か?ネットでこのように定義されていました。
神や仏といった超自然的な存在に対しての信仰や、それにかかわる営みを指す言葉です。
神仏の教えを信じることで、安らぎを得たいとする心の働きのことです。
確かにそうとも言えますが、
聖書は、本物の宗教とは、「困っている人を世話する行い」によって現れるものだと言っています。
父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。
聖書(ヤコブ 1:27)
ここで宗教と訳されているギリシャ語のスレースケイアは、訳すのが難しく、コロサイ2:18などでは「礼拝」とも訳されています。
つまり、ここで別にユダヤ教やキリスト教というのはこういうものであると定義しているのではなく、「本当に神を信じているなら、目に見える形で現れるでしょ?」という意味です。
本当に聖書の神様を信じている人は、目に見える2つの行動として現れます。
①孤児ややもめたちが困っているときに世話をする
孤児とは親がいない子供で、やもめとは夫に先立たれた未亡人です。
現代で言えば、親が忙しくて寂しさを感じている子供、育児放棄された子供、シングルマザーも含まれるでしょう。
困っている人を見たときに、積極的に助けることが必要です。
もちろん、直接的に助けることも必要なときはありますが、現代の日本においては、生活保護を含め、国の支援制度が整っています。
その人が精神的にも経済的にも自立し、自分の力で生きていけるようにサポートすることも重要です。
経済的に困っている人に対しては、一緒に区役所に行って国の支援や受けられるサポートがないかを調べることもできます。
精神的に参っている人には、話を親身に聞いてあげるだけでも助けになるものです。
②この世の汚れに染まらないよう自分を守る
汚れに染まらないようとは、「きよく」という意味 と「極上の品格の」という意味があります。
つまり、この世のどんな汚れの中にあっても、神の御前に品性を守り抜く努力が求められるということです。
これも、実際に人の目に目える形になって現れます。
職場で誰の陰口を聞いても加わらないとか、
不正やいじめをそのままにしないとか、
明らかに罪とわかるものに手を染めないなどです。
クリスチャンこそ、世の中で「行動が伴わない夢見集団」ではなく、極上の品格を持って地に足つけて生きる人になる必要があるということです。
私たちはどうでしょう?
神を信じ、神を愛していると言いながらも、目に見える行動が伴っていないということがありえるということです。