宗教学者の中村圭志さんによると、世界のどの宗教にも共通する3つの大事な役割があるそうです。
① 奇跡をおこす
② 秩序をもたらす
③ 説明を与える
確かに、キリスト教にも当てはまるところがあり興味深いです。
しかし、聖書は「宗教」について違う視点から定義しています。
聖書は「真の宗教」とは自分の舌を制御し、教えをその通り実行することだと言っています。
自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
聖書(ヤコブ 1:26)
「宗教にあつい」とは、祈りや断食、また、礼拝儀式などの外面的なことにおける熱心さのことです。
別に悪いように思えませんが、「あつい」という言葉のべブル語の原語には「〜のように見える、想像する」という意味があります。
つまり、外側と内側が違うことを強調しているのです。
だから、聖書は、「自分は〜と思っても」という、手厳しい表現を使っています。
実際に、その敬虔さが本物かどうかは、次の二つを通して判断できます。
①ことば遣い
ことばは使い方によって争いをもたらしたり、平和を生み出します。
また、ことばは生き方を示し、心の考えをあらわにします。
舌を制御できない人は、心の中にある悪いものが口から溢れ出ているのです。
他でもなく、キリストがそのように言っています。
しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
聖書(マタイ15:18)
②自分の心を欺く
ここでの自分の心を欺くとは、聖書の言葉を間いて実行しない人のことです。
礼拝を守り、聖書を学ぶこと自体が敬虔なのではないのです。
それを行うことが本当の敬虔です。
つまり、外側では敬虔そうに見えても、ことば遣いが悪く、聖書の教えを実行しないならば、それは本物ではないということです。
聖書は、なんと言っていますか?
「そのような人の宗教はむなしい」と言っています。
「むなしい」とは、「中身のない」とか「役に立たない」という意味です。
しかし、正直な話、私を含めて、誰もが舌を制御できず、「正しい」とわかっていても実行できない弱い自分を知っているのではないでしょうか?
どうやったら、真に敬虔であることが可能なのでしょうか?
それは、私たちの努力とか行いからくるものではなく、神から来ます。
私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。
聖書(2ペテロ1:3)
私たちが100%の神の恵みによって救われるように、日々敬虔に生きることも、100%の神の恵みによるのです。
なので、口が守られ、聖書の教えを実行できるように祈りましょう。