80年以上も前から世界中の人々に読み継がれ、日本でも500万部売れているカーネギーの『人を動かす』という本の第一章のタイトルは「盗人にも五分の理を認める」です。
意味は「たとえ犯罪人の言い分でも半分は正しいと認めてあげよう。批判は何も生み出さないよ」とうことです。
これは、良い対人関係においては非常に有効です。
どんな人も、他人に理解されたいという欲求を持っています。
なので、他人を非難すれば、相手は反抗的になってしまいまともなコミュニケーションはとれなくなるからです。
しかし、私たちと神様との関係においては、別です。
聖書は、神に対しては、どんな言い訳もするべきではないとと言っています。
神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために。
聖書(箴言30:6)
「神様のことばに付け足しをしてはならない」これはどういう意味でしょうか?
神様のことばに「そのまま従う」のではなく、ごまかしたり、言い訳をしたりすることです。
例えばこんなようなことです。
1992年、サウスダコタ州で、デニス・リー・カーティスという男が、窃盗で逮捕されました。
彼の財布から、警察が一枚の紙を見つけました。
そこには8個の規則が書かれていたそうです。
1.私は誰も殺しません。必要がない限り。
2.私は現金や金券は盗みます。 でも、小切手は盗みません。
3.私は夜間だけ盗みをします。
4.私はマスクで顔を隠すことはしません。
5.私はミニマートかセブンイレブンでは盗みをしません。
6.私は徒歩で警察に追われた場合は、逃走します。でも、車で追われている場合、民間人を命の危険にさらすようなことはしません。
7.私は1年のうち7ヶ月間だけ盗みをします。
8.私は貧しい人々に与えるために、金持ちから盗むことを楽しみます。
どうでしょう?
彼なりの条件を付け加えていますよね?
このカーティスという男はもしかすると、自分は正しいと思い込んでいたかもしれません。
しかし、他の人から見れば、これはただの「言い訳」や「屁理屈」、「正当化」です。
この泥棒が裁判所の前に立ったとき、彼は、彼自身のではなく、より基準の高いアメリカの法律によって裁かれました。
私たちも同様に、神の前に立った時、自分にどんなに正しいと思える「言い訳」があっても、神さまの完全な法律によって裁かれるのです。
つまり、神様が聖書で、「盗んではならない」と言えば、「自分にとって」どんなに正当な理由があっても、それは理由にならないということです。
特に私たちが言い訳のための「付け足し」をするとき、ほとんどが自分の罪や失敗を合理化するときです。
では、どうすればいいのでしょうか?
聖書に書かれている神さまのことばに、まずそのまま「従う」姿勢を持つということです。
でも、私たちは神の命令に完全に従うことはできません。必ず言い訳が出てくるでしょう。
大事なことは、その言い訳を神様にぶつけるのではなく、素直に「神様、失敗しました。罪を犯しました。ごめんさない」と言えばいいのです。
正当化と悔い改めは違います。
神様は、素直に自分の弱さを認める人には、とっても寛大です。