あなたは今日、家に友人たちを招いてパーティをすることにしました。
みんなを喜ばせようと、温かいスープを前日から仕込み、準備します。
みんなが集まってきておしゃべりをしている間も、出来立てのアツアツを食べて欲しいので、スープの仕上げを怠りません。
「さあ、できたぞー!」とみんなに声をかけて、お皿に次々とスープをそそぎ、みんなに分けていきます。
みんなスープを飲んで「美味しい!」と喜びます。
あなたはそんな様子がうれしくて「どんどんお代わりしてくれよ」といい、みんな次々にお皿を持ってきてお代わりしてくれます。
その様子がとてもうれしくて、あなたはどんどんスープを配ります。
みんなが「いやー、美味しかったよ。ありがとう!」と口々に言ってくれました。
そんなときに、あなたのお腹がグーッと鳴ります。
みんなは「あれ?」という顔をして、あなたに「え? おまえは食べてなかったの?」と聞いてきました。
「いやいや、みんなの顔を見てたらうれしくて、自分のことなんて忘れてたんだ。なにか適当につまむから僕は大丈夫だよ」
しかし、あなたのその話を聞いたみんなの表情は、どんどん曇っていきました。
「ごめん。おまえのこと考えずに、俺、3杯もお代わりしちゃった」という友人もいます。
なんとなく、その場の空気が沈んでいってしまったのです。
あなたはみんなのためにスープを作り、みんなを笑顔にしたところまではよかったのです。
しかし、自分の空腹感を我慢してまでスープを与えたことがわかると、みんなも罪悪感を覚えたのです。
人に喜びを配りたいと思っていたのに、結果として「罪悪感」を配っていたのです。
聖書は、「自分の心が満たされて、本当の意味で他の人の役に立つ行動ができる」と言っています。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。
聖書(1テモテ6:6)
自分が満たされないで、よい行いをすると、偽善の罠があります。
人を満たそうとする前に、まず自分が「満ち足りる」ことが先なのです。
「いやいや、それは自分を愛するナルシシズムなんじゃないか?キリストは十字架で犠牲してまで人を愛しただろ」と思うかもしれません。
自分を自分で満たすわけではありません。
まず、あなた自身が本ようにキリストの愛に満たされますか?ということです。
また、私たちはキリストでありません。
十字架で人類すべての罪を背負い、死ぬ犠牲なんてできないのです。
むしろ、神は、ご自身の犠牲によって、私たちを100%の恵みで満たしてくださいました。
福音の本質は、まず私たちが神様に満たされることが先だということです。
社会は、「もっと働け」「みんな一生懸命やってるんだ」
「休んでていいのかな?」「みんなに申し訳ないなあ」「家族のために頑張らないと」と罪悪感を煽ってきます。
しかし、あなたがボロボロになるまで働いて、うつ病になって喜ぶ人はいますか?
神様は喜ばれるでしょうか?
まず、与えることを一回ストップして、神の愛と祝福を受け取ってください。
心のタンクがいっぱいになって、初めて他の人を飲ませる余裕が出るのです。