はじめに
あるネットの記事に「心が貧しい人の11個の特徴」というのが載っていました。
- プライドが高い
- 人の成功を喜べない
- 自分のことしか考えていない
- 勝ち負けを気にする
- ケチ
- 人と自分を比べる
- 常に不満がある
- 感謝の気持ちをもたない
- 謝るのが苦手
- 理想が高い
- 何かすると見返りを求める
確かに、こんな人にはなりたくありません。
そして、記事の最後には心が豊かな人になりましょうと締め括られていました。
意義ある人いますか?
その通りです。
しかし、マタイの箇所では、逆のことが書かれているのです。
「心の貧しい者は幸いです」
は?
心の貧しい人が、幸せな人です。
は?
前提として、世の中の価値観と聖書の価値観は同じではありません。なので、必然的に、迫害が起こります。だからこそ、私たちは聖書を学ぶ必要があります。
今日は、 「あなたは霊的に破綻していますか?」というタイトルで神の国の価値観を学んでいきましょう。
このチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画をアップしています。聖書に少しでも興味のある方、人生を変えたい方は、チャンネル登録をよろしくお願いします。
霊的な破綻とは
今日の箇所は、山上の垂訓、山上の説教と言われています。
この説教は、群衆に向けても語られていますが、イエス様の弟子たちへの教えのようです。
1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
聖書(マタイ5:1-2)
2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
そして弟子たちにいうわけです。
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
聖書(マタイ5:3)
心の貧しい者とは、どういう意味でしょうか?
一般的には「心が貧しい人の11個の特徴」のように心が狭い、卑しいという意味と受け取られます。
積極的にそういう人になりましょうという意味ではありませんが、そのように自分が心が貧しいことを認めている人のことです。
- プライドが高い
- 人の成功を喜べない
- 自分のことしか考えていない
- 勝ち負けを気にする
- ケチ
- 人と自分を比べる
- 常に不満がある
- 感謝の気持ちをもたない
- 謝るのが苦手
- 理想が高い
- 何かすると見返りを求める
これは、あくまでも聖書の例ではなく、ある人の記事ですが、みなさんどうでしょう?
こうはなりたくないけど、当てはまる自分がいるのが事実じゃないでしょうか?
しかも、聖書の定義する心の貧しい人は、「この11個の例」どころではありません。
これを聞くと絶望するかもしれませんが、聖書の言っている心の貧しい人は、「霊的に破綻している状態」のことです。
え?そこまで?
自分に問うて見る必要があります。
みなさんは、「心が貧しいですか?」「うーん」
「先ほどの11個に当てはまりませんか?」「ええ、まあ」
では、「霊的に破綻していますか?」「…」
はっきり言いましょう。
私たちはみな霊的に破綻しています。
そもそも、霊的に破綻していないと、救われません。
なぜなら、罪の救いとは、罪を犯したことによって負った負債を免除してもらうことだからです。
自己破産って聞いたことありますか?
自己破産とは「裁判所から許可をもらうことで、借金を支払う必要がなくなる」ということなのです。
実は、イエス様の十字架も、裁判用語が使われています。
イエス様が全人類の罪を背負って、十字架にかかられ死なれる時、最後になんと言ったかご存知ですか?
「完了した」
これは、ギリシャ語で「テテレスタイ」という言葉で、商業用語である。
昔、納税したことを証明する領収書が発見されたようです。
つまり、「負債を完済した」「全額支払い済み」という意味です。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
聖書(1コリント6:20)
そうです。
私たちは、自分が認めようと、認めなかろうと、みんな霊的に破綻しているのです。
罪を犯しているので、破綻しており、自分の力で罪を犯さなくなることもできません。
自分は罪は犯していないと言ったら、嘘になり、債務が増え続けます。
罪とは人を殺したり、人の物を盗んだり、法律を犯すことをだけではありません。
聖書が教える罪はもっと広いのです。
人がした罪だけでなく、しなかった罪。
例えば、私が誰かを愛さなかった。助けなかった。このようにしなかったことも罪です。
実は、聖書を読めば読むほど、特に旧約の律法はそうですが、
霊的に破産していることがよくわかるようになります。
ある人は自分の罪が責められているように感じ、苛立つかもしれません。
ある人は、絶望するかもしれません。
しかし、方向としては間違っていません。
自分が霊的に破綻していることに気づいた時、キリストの十字架の赦しと恵みを受け入れることが可能だからです。
太宰治さん(1909-1948)は、近年の研究によって、生涯の一時期には聖書を福音として受容していたことが指摘されています(ex.佐古1992、田中2004)。
太宰治さんについて、佐古純一郎さんによると、
「聖書を律法的に受けとろうとしればするほど、私たちは、それを行いえない自己の弱さとみじめさに目ざめざるをえないであろう。しかしその場合、そのみじめさは、ただみじめさで終わるのではなくて、律法の前で正しき者でありえない自己として自らが自覚されてくる。それが罪への目ざめなのである。太宰はそういう苦しみを自らの中に苦悩として深めた人であった(佐古1958;pp.100-102)。
・・・・
「神の愛は信じられず、神の罰だけを信じてゐるのでした。」
これだけ見ると、太宰さんは「心の貧しさ」を自覚している方でした。
しかし、そのままの姿でイエス様の赦しを受け取れなかったということです。
破綻してていいんです。
イエス様は、責めないんです。
むしろ、貧しいものは幸いだって褒めてくれるんです。
天国に入れるんだって、言ってくれるんです。
これが、100%の恵み。
アメージンググレースです。
クリスチャンであっても、ここまで聖書を通して説明してやっと、「あ、自分は本来、霊的に破綻していたんだ」と気づきます。
だからこそ、ここが、問題なのです。
むしろ、クリスチャンだからこそ、勘違いしてしまうのです。
「救われた時よりはマシだろう」「あの人よりは霊的に上だ」「神様、あの人は最悪です」
もちろん、救われた人は、霊的に成長します。
しかし、事実、自分の力で成長はできません。
私たちは、「恵みによって救われました」
同じように、「恵みによって成長します」
そして、「恵みによって完成するのです」
神学用語で、義化、聖化、栄化と言います。
共通点は、全て神の恵み。神の力によってなされるみわざです。
クリスチャンこそが勘違いしがちなのです。
救われる時は、100%恵み。
しかし、そこから自分で頑張って、きよくなろうとする。
自分できよくなろうとすれば、絶望が待ってます。
こんな人も多いのではないでしょうか?
救われた時は、めちゃくちゃ喜びがあった。
でも、クリスチャン生活が長くなると、喜びがなくなる。
当たり前です。
喜びは、神様の恵みによって与えられるからです。
自分の力で頑張れば、それは修行です。
楽しい修行はありません。苦行です。
パウロもこのことを注意しました。
あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。
聖書(ガラテヤ3:3)
当時、そのように他の人を見下した信者がいました。
信者と言っても、ユダヤ教の指導者パリサイ人です。
9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
聖書(ルカ18:9-14)
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
このたとえに登場するパリサイ人は、お金も名誉もあり、行いも立派で非の打ちどころのない人です。
何も求める必要がありません。
彼はある意味、心の富んだ人です。
反対に取税人は、自分の心の汚さに悩み、宮にも上れず、目を天に向けることもできず、自分の胸を打ちたたきながら神様のあわれみを願い求めています。
彼は心の貧しい人です。
神様はどちらを喜ばれるでしょうか?
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
聖書(マタイ5:3)
貧しい取税人でした。このような人こそ幸いだと教えられているのです。
そして、神の御国はその人たちのもの。
そういう人こそ、イエス様からテテレスタイ「あなたの罪の負債はもう払ったよ」と言われ、天国に入れるのです。
今まで、見てきた通り、神の目から見れば、すべての人が「心が貧しい人」
「霊的に破綻している」のです。
しかし、問題は、それに気づかないこと。認めないこと。
自分の力で、心を豊かにしようと努力してしまうこと。
ちょっとはマシになったと勘違いしてしまうこと。
私たちの債務を支払うことのできる神様に向かわない限り、私たちの心が豊かになることはありません。
では、どうやったら、いつも、心が貧しいことを実感できるのでしょうか?
それは、私たちは神と出会うことによって心が貧しいことを実感できます。
預言者イザヤは、王座に座しておられる主を見て、
「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者である。」
聖書(イザヤ6:5)
と言いました。ダニエルは主にお会いして、
「私の尊厳は破壊に向き、力を失った。」
聖書(ダニエル10:8)
と言いました。イエスの弟子ペテロは、
「主よ、私のようなものから離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」
聖書(ルカ5:8)
と言っています。
自分にプライドや高慢があるのは、まだ主を見ていないからです。
もし、心の貧しさを感じないなら、主から心が離れてしまっている時かもしれないのです。
不思議なんですが、礼拝してない時、祈っていない時、聖書を読んでいない時、意外に心の貧しさを感じないものです。
「なんか変だな」と違和感があるものの、心の渇きに気づけない状態。
しかし、主の臨在に触れた時、自分がいかに主から心が離れているか、貧しいか、乾いていたかがわかるのです。
まとめ
みなさんは、心が貧しいでしょうか?
霊的に破綻していることを自覚できているでしょうか?
自分が霊的に破綻していること認めキリストを信じるものは、日々キリストの恵みに感謝できます。
喜びが溢れます。
喜んで全てを捧げます。
キリストの十字架の死と復活によってすべての負債が「完了した」からです。
もし、今、心の貧しさを自覚できていないなら、主に触れられる必要があります。
祈りましょう。求めましょう。主にお会いする時、わたしたちの心に貧しさが訪れるのです。
主にお会いする人は、もっと飢え渇くのです。聖霊に満たされている人は、もっと渇くのです。