はじめに
三浦綾子さんの小説『氷点』の内容紹介の中に「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉が出てきます。
「辻口病院長夫人・夏枝が青年医師・村井と逢い引きしている間に、3歳の娘ルリ子は殺害された。
『汝の敵を愛せよ』という聖書の教えと妻への復讐心から、辻口は極秘に犯人の娘・陽子を養子に迎える」
辻口医師は、自分の3歳の娘ルリ子が何者かに殺害されましたが、『汝の敵を愛せよ』という聖書の教えから犯人の娘・陽子を養子に迎えます。
しかし、実際は、彼は妻への復讐心から養子を受け入れていました。
その後、妻や娘がそのことを知り、人間の中のドロドロとした「原罪」が明らかになっていくのです。
人は「自分の敵を愛する」ことが可能なのでしょうか?
みなさんはどう思いますか?
「敵を愛することは可能なのか?」
今日も、山上の説教のイエス様のことばの真意を共に受け取っていきたいと思います。
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敵を愛することは可能なのか?
はじめに、イエス様は、旧約聖書の律法について話されます。
『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
聖書(マタイ5:43)
レビ記には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という大事な戒めが出てきます。
あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
聖書(レビ19:18)
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令は、旧約聖書の律法で2番目に大切なものだとイエス様は言っています。
1番目は、「あなたの神を愛しなさい」
しかし、今日の箇所での問題は、「隣人」が誰であるかです。
そして、その隣人を愛せという戒めをどこまでの範囲に適用するかが、当時でも問題になっていたのです。
問題になったというか、当時のイスラエル人たちにとっての、「隣人」とは、同胞のイスラエル人だけでした。
敵対している共同体に属する隣人に対しては、「憎む」のが普通でした。
『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
聖書(マタイ5:43)
実は、律法だけでなく、旧約のどこにも「あなたの敵を憎め」という教えはありません。
しかし、神を憎むものを憎むことは、神への愛を表すというラビの教えがあったのです。
詩篇を見ると確かに、そのように解釈できる箇所があります。
21 主よ、私はあなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。あなたに立ち向かう者を嫌わないでしょうか。
聖書(詩篇139:21-22)
22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。
これはダビデの告白です。
「同国人は愛さなければならないが、敵は少なくても愛する必要はない」
そのような考えが普通の状況で、イエス様はやはり、律法の真意を正く解釈されるのです。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
聖書(マタイ5:44)
「自分の敵を愛しなさい」
敵とは誰か?自分に嫌なことをする人のことですよね。
自分を過去にひどい目に合わせた人。
いじめた人。
裏切った人。
悪口や陰口をした人。
暴力や暴言を浴びせた人。
この人だけは思い出すのも嫌。
絶対に赦せないと思う人のことです。
聖書は、そんな人のことを愛しなさいと言っているのです。
僕は、メッセージ準備をしながら、最初の日は呆然となって、準備が前に進まなくなりました。
「いや、無理っしょ」
どんなに考えても、頑張ろうと思ったとしても、結論はわかっているからです。
「自分には、そんな愛がない」
自分がどういう人間かを反省してみると、
「自分に良くしてくれる人は愛せる」
「自分を好きな人は好き」
でも、そうでない人を愛せと言われても、お腹が痛くなるのです。
自分に唾を吐いて侮辱する人を愛せるか。いや無理だろう。
イエス様は、そんな私たちをご存じです。
自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
聖書(マタイ5:46)
そして、これは、じっと耐えて、悶々とし、時がたったら忘れるという教えではないの、わかりますか?
「積極的に愛しなさい」ということです。
積極的に愛するとは?
また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
聖書(マタイ5:47)
「あいさつ」って簡単に見えますよね?
でも、その意味を知れば、実はもっとも難しいことかもしれません。
ギリシャ語の「あいさつ」の原語「アスパゾマイ」は「自ら引かれて行く、〜に自分を引っ張らせる」 という意味があります。
自らを引っ張らせ、他の人に近づかせることを意味します。
自分の嫌いな人。言い換えると自分を嫌っている人に、近づくのって勇気入りませんか?
でも、敵に対して、自分の「嫌だなあ」って気持ちを抑えて、無理やり自分を引っ張って、相手に近くというニュアンスがここの「あいさつ」にあるのです。
嫌な人にも、笑顔であいさつできますか?
もちろん、職場では僕も自分をいじめる上司に笑顔であいさつしていました。
一年くらい無視されましたが。
でも、ここでは表面的な挨拶を超えて、
積極的に敵を「抱きしめ、喜び、あいさつする」という意味です。
そんなこと、できますか?ってことです。
その人にとっての敵は、人それぞれでしょう。
しかし、最大の敵とは、自分の家族を殺した人だと僕は思います。
マーガレット・コヴェルという人の話をしたいと思います。
第二次世界大戦で日本とアメリカが戦ったのはみんなご存知だと思いますが、そのいわゆる太平洋戦争が始まったのは、1945年12月8日の、日本によるハワイ真珠湾攻撃からです。
その飛行戦隊を率いたのが真珠湾攻撃の総隊長:淵田美津雄(ふちだ みつお)という海軍中佐です。
この人が「トラ・トラ・トラ」(われ奇襲に成功せり)を打電したことでも有名です。
この淵田美津雄さんの自伝に、「マーガレット・コヴェル」という若いアメリカ人女性が出てきます。
終戦後、連合国による戦犯裁判が始まりました。
淵田中佐はそれについて、「これは人道などの美名を使ってはいるけれど、勝者の敗者に対する一方的な合法に名を借りた復讐でしかなかった」と思いました。
それで逆に淵田中佐は、連合国側もいかに非人道的な行為をしたかの証拠を集めるために、戦争中に敵側の捕虜となって、戦後帰還してくる人々から取材をすることにしたのです。
淵田さんは収容所に出かけて行って、捕虜になった者から、連合国側の捕虜虐待調査を始めました。
やはりその中にはずいぶんひどい扱いを受けた日本兵たちもいることがわかりました。
その中で、アメリカのユタ州から帰還した兵士たちがある出来事を語りはじめたそうです。
彼らは20人ばかりで、腕を落としたり足を切ったりの重傷者たちでした。
そして、アメリカのユタ州のある町の捕虜病院に収容されました。
そこで手当を受けながら義手義足も作ってもらったそうです。
するとある日、1人の20歳前後の若きアメリカ人女性が現れ、日本人捕虜に懸命の奉仕をし出したそうです。
それが、マーガレット・コヴェルという人でした。
彼女は日本の捕虜たちに向かって、「皆さん、何か不自由なことがあったり、何か欲しいものがあったりしたら、私におっしやって下さい。私はなんでもかなえて上げたいと思っています」と言ったそうです。
捕虜たちは、最初、何かの売名行為かと思っていました。
ところが、彼女は、純粋な心で、手足の不自由な捕虜たちに親もおよばぬ看護を続けたそうです。
なにか捕虜たちの周りで足りないものを見つけたら、翌朝は買い整えて来るというサービスぶりであったそうです。
そうして2週間、3週間と続いていくうちに、捕虜たちは心うたれて来たそうです。
それで、「お嬢さん、どういうわけで、こんなに私たちを親切にして下さるのですか?」と聞いたそうです。
彼女はしばらく黙っていたそうですが、やがて彼女は言いました。
「私の両親があなたがたの日本軍隊によって殺されたからです」
衝撃の事実でした。
このマーガレット・コヴェルの両親はキリスト教の宣教師であり、日本の関東学院のチャプレンだったそうです。
そして日米開戦前、引き揚げ勧告によってフィリピンのマニラに移りました、日本兵につかまってしまったそうです。
日本兵は、コヴェル宣教師夫妻にスパイの嫌疑をかけ、日本刀で夫妻の首をはねて殺したそうです。
このできごとは、アメリカで留守を守ってた娘マーガレットにも伝わりました。
彼女は、両親を失った悲しみと、両親を処刑した日本兵に対する怒りでいっぱいになりました。
しかし、アメリカ軍の報告書には、このとき目撃していた現地人の話が記されていました。
‥‥彼女の両親は両手を縛られ、目隠しをされ、日本刀を振りかざす日本兵のもとで、2人は心を合わせて熱い祈りをささげていた…
マーガレットは、地上におけるこの最後の祈りで両親が何を祈ったかを思ってみました。
すると彼女は、自分がこの両親の娘として、次分の在り方は、憎いと思う日本人に憎しみを返すことではなく、両親の志をついでキリストを伝える宣教に行くことだと思ったそうです。
そして、自分の住んでいる町に日本兵の捕虜収容所の病院のあることを知りました‥‥捕らわれの身でありながら、傷つき、病んでいる。どんなにか、わびしい毎日であろう。
‥‥マーガレットは、町の捕虜病院に飛んで来ました。そして事情を話したので、ソーシャルーワーカーという名義で働くことを許されました。
それからというもの、心からのサービスで、捕虜たちが日本へ送還されるその日まで、約6ヶ月、病院に来るのを一日も欠かしたことがなかったというのです。
‥‥この話は淵田さんの心を激しく打ちました。「やっぱり憎しみに終止符を打たねばならぬ」ということで、淵田さんは、畳を叩いてほこりを立てているような捕虜虐待の調査を即刻止めにしたのです。
そして、後にこの淵田中佐は、クリスチャンとなり、キリストの伝道者となりました。
このマーガレットさんの自分の両親を殺した敵である日本兵を愛する愛はどこから来たのでしょうか?
赦して忘れるだけではなく、愛したのです。
愛するという決意だけではなく、実際に6ヶ月毎日、真実の愛で一生懸命お世話しました。
憎いはずの日本兵に、毎朝、存在を包み込むように、心から笑顔であいさつしていたことでしょう。
この愛は、ご両親の祈り。
それを聞いた神様から来たものです。
天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
聖書(マタイ5:45)
私たちが神の子供であるならば、天の父なる神のご性質に似ていくということです。
天の父なる神こそ、敵にも、罪人にも同じ愛を注がれます。
そして、御子イエスキリストを地上に遣わしたのです。
それは、十字架で私たちの罪の裁きを代わりに受けるため。
私たちが救われたのは、いつだったのでしょうか?
神を知らずに、神を神とも思わなかった時。
神を馬鹿にしていた時。
つまり、神の敵であった時です。
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
聖書(ローマ5:10)
その時に、イエス様は十字架にかかり死なれたのです。
もし、神が、イエス様がご自分の敵を憎まれたら、私たちは救いのチャンスすらなかったのです。
イエス様が歩み寄ってくれたから、私たちはキリストの愛を受け取り、救われたのです。
マーガレットが、敵である日本兵を愛し、キリストの愛を示してくれたからこそ、淵田中佐は救われ、日本人として私たちはこの証を聞くことができているのです。
まとめ
イエス様は、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。
「敵を愛することは可能なのか?」
私たちにはできません。
敵を愛する愛は私たちにはありません。
できるのは、イエス様だけです。
しかし、イエス様が敵である私たちを愛し、歩み寄って下さったことを覚える時に、私たちに敵を愛する勇気が与えられるのです。
十字架を受け入れ、聖霊で満たされる時、神の愛を伝える「伝道者」となるのです。
マーガレットが、両親の祈りを受け取り、キリストの愛によって、愛した行為が、淵田中佐をキリストの愛で満たし、彼を伝道者と変えたのです。
私たちも、今日、できるかできないかではなく、
私たちに対するキリストの愛がどれだけ深いのかをもう一度、思い出し、噛み締め、その愛を伝えるものになりたいと祈っていきましょう。
私たちがするのではなく、神の愛が不完全な私たちを通して流れていきますように。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
聖書(1ヨハネ4:10-11)
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。