はじめに
星野富弘さんの詩画作品「悲しみの意味」の詩文です。
冬があり夏があり
昼と夜があり
晴れた日と
雨の日があって
ひとつの花が
咲くように
悲しみも
苦しみもあって
私が私になってゆく
秋の日だまりに咲くサフランの花が描かれています。
サフランという花は、凍(い)てつく寒い冬や太陽の照りつける暑い夏、風雨に耐え、ようやく一年に一度だけ花を咲かせます。
星野さんは、1970年6月の梅雨晴れの日、教員になった直後に起きた不慮の事故によって、首から下の感覚をなくし、9年間の入院生活を送ります。
絶望の深淵に立たされ、私たちの想像を超えた苦悩の日々を過ごしたのです。
この花のように、悲しみも苦しみも乗り越えて「私が私になってゆく」という星野さんの言葉には、ずっしりとした重みを感じます。
私たちは、できるだけ悲しみを感じないように、生きたいと願っています。
しかし、悲しみにも意味があるとしたら、少し生き方に変化が現われるかもしれません。
前回の「心の貧しいものは幸いです」に続き、今日の箇所でも、この世の価値観にどっぷり浸かっていた弟子たちに、イエス様は神の国の価値観を教えられました。
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なぜ「悲しむ者は幸い」なのか?
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
聖書(マタイ5:4)
なぜ、悲しむ者は幸いなのでしょうか?
はっきりと書いていますね。
それは、「その人たちは慰められるから」
悲しんでも、慰めを受けるから、私たちは幸せなのです。
ちょっと、考えてみてください。
・悲しい状況が不幸だろうか?それとも
・悲しい状況で慰めてくれる人がいないことが不幸だろうか?
どうでしょう?
悲しい状況はもちろん不幸です。
でも、悲しい状況で誰も慰めてくれる人がいないことはもっと不幸なのです。
夫婦っていいですよね。
なぜか?
人生で悲しいことが起きて倒れてしまった時、慰め、励まし、起き上がらせてくれる配偶者がいるからです。
どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいない、ひとりぼっちの人はかわいそうだ。
聖書(伝道者4:10)
これは、友達の存在にも適用できますし、ご近所さんの存在、親戚や家族にも適用できます。
聖書に「この世にあっては苦難があります」と書いているように、悲しい出来事は避けられません。
でも、その時に、慰め、励まし、起き上がらせてくれる人がいることが幸せなのです。
あるベテラン牧師「あなたを助けてくれる先生が一人いるってことがすごいこと。神様はあなたを見捨てていないってこと」
確かに。
自分にとって、悲しい状況にいたとしても、周りに慰め、励まし、応援してくれる人がいるって一番の幸せだなあ。
それをすぐに忘れてしまう自分。
辛い時に、話を聞いて助けてくれた友達の存在が感謝だった。
ガーデンチャーチの皆さんの存在がどれほど感謝か。目に見える見えない助けをしてくれた。
いつも、励ましてくれる妻の存在が感謝。
では、親しい友だちがいない、家族も疎遠、独身で教会のようなコミュニティにも所属していない孤独な人はどうなるのでしょうか?
2019年5月、日本少額短期保険協会が公開した、「第4回 孤独死現状レポート」によると、2015年4月から2019年3月までに孤独死した人数は3,392人。
死亡した年代で最も多かったのが男女共に60代、全体では約8割が男性という統計が出ています。
イギリスでは2018年、孤独問題担当国務大臣に任命されたトレイシー・クラウチ氏が、「孤独はわれわれが直面する最も重要な健康問題です」と、国民に呼びかけています。
2005年、僕と他の兵士は1年間の兵役を終えて、イラクから帰ってきた。もちろん、友達、恋人、家族が迎えに集まって、涙の再会を果たす仲間たち。
そんな彼らの姿を、僕はポツンと1人で眺めていた。
なぜなら、僕を迎えにきた人は誰もいなかったから。
僕にとっての家族は、仲間の兵士だけだったんだ。
だから僕はくるりと背を向けて、元の自分の部屋に1人で歩いて帰ったよ。
誰もいない部屋でビールを飲んでいると、自分は帰って来れて幸せなはずなのに、むなしい気持ちしか感じていないことに気が付いた。
以来、あの気持ちはずっと僕の中に居座っているよ。
他人事ではありません。
誰もが、突然、孤独になったり、孤独を感じて悲しくなる時があるかもしれないのです。
しかし、みなさん。
実は、私たちが神に目を向けるなら、どんな状況でも孤独を克服することができます。
なぜなら、どんな時でも、どんな人でも神は私たちを愛しておられ、共におられるからです。
神様がおられる限り、私たちが一人になることは絶対ありません。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
これは、ユダヤ的な神的受動態表現が使われており、正確には、
「神がその人たちを慰められるだろう」という意味です。
私たちは誰に慰められるのか?
第一に、神様なのです。
もし、周りに私たちを慰めてくれる人がいなかったとしても、
誰も、理解してくれなかったとしても、
完全に同情してくれなかったとしても、
神様は、完全に理解し、同情し、慰めてくださるのです。
これが、人間にとって、究極の幸せなのです。
ダビデの例を見てみましょう。
彼は、10年間サウル王に命を狙われていました。
彼が書いた詩篇を読めば、彼がいかに悲しみの日々を過ごしていたかがわかります。
悲しみのうちに 私のいのちは尽き、嘆きのうちに 私の年は果てました。私の咎によって 私の力は弱まり、私の骨は衰えてしまいました。
聖書(詩篇31:10)
尊敬していたリーダーに殺されそうになり、外国に逃げるように寄留し、その中でも仲間から裏切られました。
彼の詩篇を見ると、悲しみの後に神様から大きな慰めを受けていたことがわかります。
主はほむべきかな。主は 堅固な城壁の町の中で、私に奇しい恵みを施してくださいました。
聖書(詩篇31:21)
なぜ、神様は私たちを慰められるのか?
それは、ご自身が悲しみを経験したからです。
だからこそ、イエス様は、私たちのどんな悲しみにも同情される神なのです。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
聖書(ヘブル4:15)
・イエス様は、幼い時に父ヨセフを亡くしています。喪失の悲しみの経験です。
・12弟子のユダに銀貨30枚で売られるという裏切りを経験しました。
最終的に弟子たちはみんな裏切り、ローマ人から鞭打たれ、唾をかけられ、聖書を読んでいてキリストを待ち望んでいたユダヤ人たちからも、罵倒され、はめられました。
人間としての孤独を通られました。
しかも、イエス様が経験された悲しみは、そこで終わりませんでした。
イエス様は、全人類の罪を負われ、神にまで見捨てられる究極の悲しみ、究極の孤独を経験されました。
十字架にかかる前、ゲッセマネの園で、イエス様は死ぬほどの悲しいと弟子たちに漏らしていました。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
聖書(マタイ26:38)
イエス様がそれほど苦しんだのは、単に死を恐れたからではありません。
神の聖なる怒りのもとにさばかれ、愛する神に見捨てられる罪人としての死であったからです。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
聖書(マタイ27:46)
この孤独と悲しみは、本来罪人である私たちが受けるべき罰でした。
しかし、神様は代わりに孤独の悲しみを経験してくださったのです。
そして、言われるので、
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
聖書(ヨハネ14:18)
絶対に、一人にはしないよ。
あなたを捨てないよ。
私は裏切らないよ。
私の前では弱音を吐いていいんだよ。
悲しんでいいんだよ。
私は、あなたの悲しみ、よくわかるよ。
私は、あなたを誤解しないよ。裁かないよ。
まとめ
みなさん、今日、キリストの前にでましょう。
孤独や、悲しみを神様の前に吐き出しましょう。
悲しみを押し殺すことをやめて、
悲しみを無視することをやめて、
イエス・キリストの慰めを受けましょう。
そうすれば、人の与えることのできない、平安が心にやってきます。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
聖書(マタイ5:4)