二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」
聖書(マタイ18:20)
はじめに
皆さんに質問です。
教会とは何でしょうか?
教会とは何か?と質問するとよく聞くのが、
- からだ
- 花嫁
- 家族
- 群れ
- コミュニティ
- 軍隊
しかし、これらは教会を他のものに例えているだけで、定義しているわけではありません。
今日のメッセージを聞けば、教会とは何か?という問いに対して、聖書から一言で答えられるようになります。
教会の本質を知れば、なぜ、私たちは教会に行くのか。
なぜ、教会が大切なのかがわかり、どれだけこの日曜の礼拝が大切なのかもわかるようになります。
そもそも、教会という言葉は、もともとは新約聖書時代、ギリシア語のエクレシアという言葉に由来しています。
エクレアではありません。
新約聖書に100回以上出てきます。
エク=from, レシア=call
つまり、「神の前に、呼ばれた、召された、召集された人々の集まり」です。
3つのポイントに分けて見ていきましょう。
教会とは何か?
教会(エクレシア)とは、
- ①神の前に
- ②救われた者(⇄信仰告白した者)が
- ③集められる(⇄集まる)ところ
①神の前に
どこでも集まればよいというわけではありません。
神の前に集められるのが教会です。
もともと、教会のギリシャ語エクレシアは、旧約聖書のヘブライ語で「カーハール」と言います。
カーハールは、契約の民イスラエルが、神の御前での集まりる集会を意味します。
また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。
聖書(使徒7:38)
この荒野の集会が、旧約聖書ではヘブル語で「カーハール」、新約聖書ではギリシャ語で「エクレシア」です。
つまり、厳密には、教会は新約のペンテコステで誕生したのですが、旧約聖書から一貫して、神の前に招集される集まりがそもそも教会だったとも言えます。
例えば、ソロモン王が、イスラエルの人々を召集した時も、エクレシアと同じヘブル語の「カーハール」が使われています。
それから王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は起立していた。
聖書(1列王記 8:14)
この「全会衆」が「カーハール」です。
ソロモンがなぜ、人々を召集したのかが大切です。
神の前に出るために召集しました。それが本来の教会です。
神の前に集まるとは、みんなで一緒に神に目を向けるとも言い換えることができます。
小説「星の王子さま」の作者として有名なサン=テグジュペリの言葉はこのような言葉を残しました。
『愛』それはお互いに見つめ合うことではなく、いっしょに同じ方向を見つめることである。
これは、よく夫婦やカップルへのアドバイスに使われます。
『お互いが見つめ合う』これは関係の初期段階です。
例えば大好きな女性と付き合う事になった時。
たいていの人は、その人を見つめる事で、とても幸せな気持ちになります。
「あぁ、この人とやっと付き合う事ができた」「可愛いなぁ、素敵だなぁ」
たぶん、1日中見てても、飽きないでしょう。
でも、ずっと付き合っていくと「見つめ合っているだけで満足」という時期は終わりを迎えてしまいます。
人はそんな関係を「倦怠期」だとか「マンネリ」だとか表現しますよね。
「なんでもしてくれた彼が、誕生日にプレゼントもくれない。」
「好き好き言ってくれた彼女が、今は見向きもしない」
「見つめ合う事=愛し合う事」だと勘違いしているならば、その恋愛が冷えていくと感じ、時にはそのまま別れてしまう事もあります。
教会も似ています。
私たちがお互いだけを見つめ合うなら、依存的になるか、不満や寂しさを思えるでしょう。
しかし、私たちがともに、神を見上げる時に、私たちは神の愛の中で、お互いを本当の意味で愛し合うことが可能になるのです。
②救われた者(⇄信仰告白した者)が
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
聖書(マタイ16:16)
これは信仰告白です。
その後にイエス様がなんと答えたか知っている人はいますか?
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
聖書(マタイ16:18)
この岩の上に、「わたしの教会」の設立を約束されました。
岩とはギリシャ語でペテロ。
つまり、使徒ペテロの信仰告白の上に、教会が出てきていくと言われたのです。
ここで「教会」と訳されているギリシャ語はもちろん「エクレシア」です。
ここで、あえて、「救われた」と神の行為を強調した理由は、私たちが信仰告白をすることも、神の力がないとできないからです。
ペテロに「わたしの教会を建てます」という前に、イエス様はこのように言っています。
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
聖書(マタイ16:17)
このこと「イエスは生ける神の子キリストである」ことを明らかにしたのはペテロの知性でも意志でもなく、神の導きだからです。
なので、皆さんも自分が信じるという決断をしたと思っているでしょうが、正確にはあなたは信じるように神に導かれたのです。
あなたが選んだのではなく、あなたは選ばれたのです。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
聖書(ヨハネ15:16)
③集められる(⇄集まる)ところ
二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」
聖書(マタイ18:20)
これも時際には、私たちがサークルのように集まっているのではなく、神に救われ集められたという方があっています。
イエス様を考えてみましょう。
イエス様は一人で歩まれませんでした。
いつも、イエス様を中心とする群れがあった。
12弟子、その他の弟子たち。
すでに、ここにエクレシア(神の教会)が形成されていたのです。。
イエス様が天に昇られた後も、イエスをキリストと告白し、新生を経験し、キリストの名によるバプテスマ(洗礼)を受けた者が自然と集まりになっていきました。
41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
聖書(使徒2:41-42)
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
その後、聖霊の力を受けて、エルサレムの教会は、外国のアンテオケ教会、パウロの指導した群れ、ヨハネの黙示録に見るアジヤの7つの教会へと広がっていきます。
地理的な広がりや、規模の拡大は、集まる人が増えることによってです。
つまり、教会(エクレシア)とは、
- ①神の前に
- ②救われた者(⇄信仰告白した者)が
- ③集められる(⇄集まる)ところ
です。
では、ここで、【世の中の組織や共同体】と【教会】の違いを考えてみましょう。
【世の中の組織や共同体】目標や共通点、規約、建物という枠組みに人が集まって、共同体(組織)が形成される。
【教会】イエスを救い主とする信仰者の集まりという現実性(リアリティー)が先にある。
世の中の組織は、「枠」を最初に作り、そこに人を入れます。
教会は、救われた人が集まって、教会が生まれるのです。
つまり、教会とは「教会という枠」にはめて形成されるのではなく、集まるところに「教会という現実」がすでにあるというイメージです。
人が集まれば、教会になるわけでももちろんありません。
仲良しの人が集まってもただの仲良しクラブになります。
教会(エクレシア)とは、
①神の前に②救われた者が③集められるところです。
例えば、
Ex. 会社
会社のビジョンがある。会社から提示された条件を満たし、同意したものが会社員になる。
二人以上で起業する場合は、関係性(一緒にやろう)、共通目的により、会社を登記する。登記して設立。
会社は「枠」として他人に売却できる。教会はできない。
Ex. ボランティア
ボランティアしたいという意思をもった人だけが集まる。ボランティアの対象がなくなれば終わる。
Ex. サークル
共通の目標や好きなことで集まっている。目標やすることによって多様なサークルが生まれる。いつでも脱退可能。
教会は、イエスを主と告白するものが、神の前で2人以上集まっていれば、教会になる。
では、次のものは教会か考えてみましょう。
- 建物のない教会→信じているものが集まっていれば教会
初代教会は家の教会。増えひろがる。組織的である必要はない。 - 宗教法人格のない教会→信じているものが集まっていれば教会
- 組織的ではない教会→信じているものが集まっていれば教会
- 結婚式だけに使用される教会→信じているものが集まってなければ教会じゃない
- 観光客だけ入るヨーロッパの教会→信じているものが集まってなければ教会じゃない
- 聖書勉強グループ→信じているものが集まっていれば教会
「イエスを主と告白するものが、2人以上集まっていれば」大きな意味で、教会です。
つまり、今日覚えたい大切なことは、教会に関するいかなる理念や組織より先に、イエス・キリストを告白する信仰者の持ついのちや現実性があるということ。
だからこそ、地域教会においては、いろいろな教会があるのです。
教会組織のあり方も、多様な姿をとります。
それは、牧師の特性や、信じる人たちの特性によって、教会の現実性にふさわしく多様です。
生き生きと、ダイナミックになるのです。
ここで、哲学や組織が教会を縛り、お互いの価値観をぶつけ合うと、教会は自由と命、ダイナミックを欠いたものになります。
ヨーロッパの衰退した教会は、建物だけが残っています。
組織委員会が経営しているような教会もあります。
中国には国が運営している国営教会があります。
しかし、例え、12弟子のように、政治観が違ったとしても、思想が、性格が、目標が、理念が違かったとしても、イエス・キリストの福音を信じているならば、私たちは教会の一部として、いのち溢れる集まりになっていくのです。
3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
聖書(エペソ 4:3-6)
4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。
終わりに
教会(エクレシア)とは、
- ①神の前に
- ②救われた者(⇄信仰告白した者)が
- ③集められる(⇄集まる)ところ
です。
どこで一致していくのか、いやすでに一致しているのかが大事です。
神の前に出ること。
救われていること。
集められていること。
イエス・キリストにあって、一つである現実。
これが教会です。
その他の違いは、一旦脇に置いて、まず、ここで一致していきましょう。
私たちは一つです。