6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
聖書(1コリント3:6-7)
7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
はじめに
教会には2つの大事な目的があります。
- ①神を愛し、隣人を愛するため。(①礼拝、⑤奉仕)
- ②神の国の拡大のため。(②宣教、③交わり、④教育)
この目標を達成するために教会がする5つの具体的な機能を見ています。
- ①礼拝
- ②宣教
- ③交わり
- ④教育
- ⑤奉仕
今日は教育についてです。
辞書によると、教育とは「教えて知能をつけること。人の心身両面にわたって、またある技能について、その才能を伸ばすために教えること」
今まで、このシリーズを学んできた人は大体パターン分かりますよね。
教会の教育は、この世の教育とは違います。
では、何が違うのでしょうか?
今日の記事を読めば、教会で行われる教育とは何かを聖書から、一言で言えるようになります。
それがわかると、なぜ、学ぶのか、訓練されなければいけないのかが分かり、クリスチャン生活のモチベーションが上がるでしょう。
教育とは何か?
- ①全ての聖徒たちが、 聖書(コロサイ3:16)
- ②キリストに似たものに成長するための 聖書(エペソ4:11-13)
- ③手助けをすること。 聖書(1コリント3:6-7)
誰が教育するのか?
①全ての聖徒たちが、 聖書(コロサイ3:16)
聖徒とは、キリストを信じているひとを指す聖書の専門用語です。
全ての聖徒たちが教育されるべきであり、全ての聖徒たちが教育するべきです。
「キリストのことばを、 あなたがたのうちに豊かに住まわせ、 知恵を尽くして互いに教え、 互いに戒め、 詩と賛美と霊の歌とにより、 感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
聖書(コロサイ3:16)
しかし、誰もがすぐに他人を教育できるかと言えば、NOです。
そもそも、「全ての聖徒たち」とあるので、教会において、教育はクリスチャンしかできません。
ハーバード大学やオックスフォード大学の神学部を卒業し、聖書に精通する専門家でも、キリストを救い主として信じて、新生していなければ、教育はできません。
また、他人を教える人は、自分が誰よりもしっかり教えられていなければなりません。
たとえば、牧師は、より重い責任で、高い基準で教育することを任されている者たちです。
また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。聖書(マルコ9:42)
「これが聖書の真理です」と言いながら、変なことを教えていると、教会が破壊され、結果的に人々をつまづかせることになります。
教える人には神からの権威が与えられますが、重い責任も与えられるのです。
なので、まずは、私たち全員が、牧師にしっかり、教育されていく必要があります。
パウロは、牧師の後輩であるテモテにこのように言っています。
多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。
聖書(2テモテ2:2)
これは、牧師が教会で注意すべきは、「ほかの人にも教える力のある信頼できる人」に教育を任せなければいけないということです。
なので、私たちは全ての人が教え合うことを目標に、しっかり教育される必要がある。
しかし、全ての人が無条件で教える立場になれるとは限らないということです。
なぜ、教育するのか?
②キリストに似たものに成長するための 聖書(エペソ4:11-13)
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
聖書(エペソ4:11-13)
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
ここでも、教える役割である牧師の重要性が出てきます。
しかし、注目したいのは12節以降の、教育の目的です。
それは、キリストの似姿になるために成長するということです。
そのためには「学ぶ」努力や訓練が必要です。
5 だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、
あらゆる熱意を持って、学んでいますか?
6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
聖書(2ペテロ1:5-8)
7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。
- 「信仰」は、イエスの義によって得られるもので、神とともに生きていく人生の基本です。
- 「徳」は、すばらしい神の性質に似ていくことです。
- 「知識」は、一般的な知識 である以上に、神のみことばに対する知識です。
- 「自制」は、知識によって高ぶらず、人々と調和することです。
- 「忍耐」は、試練を受けながらも主が来られる日まで耐え忍ぶことです。
- 「敬虔」は、神に正しく仕えることです。
- 「兄弟愛」とは、信仰の兄弟姉妹に対する愛です。
- 「愛」は、すべての徳を含み、神が語られた最終目的であり、最高の戒めです。
この項目にあって成長するとき、私たちはキリストににていきます。
これを見ると、教会の教育は、知識だけではないことが分かりますよね?
ただ、正直、聖書の知識が不十分で、それ以降、進めない、成長できないクリスチャンは少なくありません。
3番の「知識」で止まっているクリスチャンです。
なぜ、止まるのか?
みんな忙しいから、勉強したくない、できない、しないのです。
だから、この知識の部分は、ガーデンチャーチは半ば強制にしています。
洗礼の条件を4回の「キリスト」についての学び。
メンバーシップの条件を、10回を超える弟子訓練の学びです。
弟子訓練を受けた人、受けている人。
簡単じゃなかったはずです。
毎週、2時間を確保しなければいけません。
予習や暗唱聖句もあります。
でもですね。
これは、基礎の基礎なので、ここで「面倒だ」とやらないと、これからのクリスチャン人生がつむことになるのです。
言い過ぎですか?スパルタですか?そうではありません。
5 だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、
私は、熱意を傾けて、教えています。
ヘブル人の手紙にこのような辛辣な言葉があります。
クリスチャン生活が長いのに知識において成長していない人への言葉です。
12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
聖書(ヘブル5:12-14)
13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
クリスチャン生活を続けているのに、お乳を飲んではいけませんよということです。
お乳とは何か?初歩の教えのことです。
1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、
聖書(ヘブル6:1-3)
2 きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。
3 神が許されるなら、先に進みましょう。
6つの基礎的な教えのことです。
悔い改め、信仰、洗礼、按手、復活、さばきです。
これらについて、聖書から「パッと」言えなければ、あなたは初歩で止まっているということです。
初歩で止まっているクリスチャンは、他の人に教えられないだけではなく、自分自身も、サタンの攻撃に負けやすくなります。
当たり前ですよね。
子供はすぐに騙されます。知識がないからです。
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、聖書(エペソ4:14)
あなたは今まで教会の中で、どのような教育を受けてきましたか?
あなたはキリストの似姿に変えられるとように努力していますか?
どうやって教育するのか?
③手助けをすること。 聖書(1コリント3:6-7)
その人が成長するかは、その人次第とも言えますが、正確には、神さま次第です。
6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
聖書(1コリント3:6-7)
7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
成長させるのは神。
でも、誰かが種を撒き、水を注ぐ必要があります。
種を蒔くとは何でしょう?
これは、みことばを教えることの比喩とも言えます。
その人の心に種を蒔くのです。
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
聖書(1ペテロ 2:2)
人は、みことばによって、成長するのです。
なので、あなたの経験や証、哲学をシェアしても、みことばを教えないと相手は成長しません。
証しは、あくまでも、みことばを理解しやすくする、受け入れやすくするサポートです。
「そのように、 信仰は聞くことから始まり、 聞くことは、 キリストについてのみことばによるのです。」
聖書(ローマ10:17)
水を注ぐとはなんでしょう?
みことばの種が成長するように、行う実践的な教育です。
関係を通して、みことばにどうやって生きるかを教えるやりとりです。
主に、牧師や執事のようなリーダーがが行います。
ただし、あなたを成長させてくださるのは神です。
例えば、みなさん、ここ一ヶ月色々なことがあったのではないでしょうか?
「なんでこんなことが起こるんだ?」
「神様がいるのになぜ?」
「自分は本当に信仰あるのだろうか?」
みことばを聞いているので、弟子訓練を受けているのになぜ?
これは、神の教育。神の訓練です。
神があなたの信仰を成長させるために、試練を許されるのです。
なので、みなさん、苦難や試練がきた時、喜びましょう。
は?喜ぶ?冗談だろう、ゆうき牧師。
違います。
聖書にそう書いています。
私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。
聖書(ヤコブ1:2)
なぜ、喜ぶのか?それは、神の教育により、私たちは成長するからです。
3 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。
聖書(ヤコブ1:3-4)
4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。
終わりに
教育とは何か?
- ①全ての聖徒たちが、 聖書(コロサイ3:16)
- ②キリストに似たものに成長するための 聖書(エペソ4:11-13)
- ③手助けをすること。 聖書(1コリント3:6-7)
誰が教育するのか?
①全ての聖徒たちが、 聖書(コロサイ3:16)
なぜ、教育するのか?
②キリストに似たものに成長するための 聖書(エペソ4:11-13)
どうやって教育するのか?
③手助けをすること。 聖書(1コリント3:6-7)
たくさん教育を受けて、成長しましょう。
そして、自分も誰かを教えられるようになることを目指しましょう。
そうすれば、教会は成長します。