1 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。
聖書(マルコ11:1-11)
2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。
7 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」
11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
はじめに
今日の箇所は、一行、つまり、イエス様と弟子たちがエルサレムに近づく場面です。
「エルサレムに近づく」とは非常に重要なフレーズです。
それは、イエス様の公生涯、つまり30歳で宣教を開始してからの3年間の公生涯のゴールは、このエルサレムだったからです。
それまでも何度かエルサレムには来ておられましたが、今回は、ちょっと様子が違います。
なんででしょう?
いよいよ、エルサレムで、十字架にかかるというゴールに向かう最後のエルサレム入城だったからです。
イエス様がエルサレムに入場される時に、大きな役割を果たす一頭の動物がいました。
それが、今日の中心となる、ロバです。
今日は、このロバの話から「神に用いられる人。神に用いられない人」の違いを聖書から見ていきましょう。
メシヤのエルサレム入城
1 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。
聖書(マルコ11:1-11)
2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
イエス様は、「まだだれも乗ったことのない子ろば」を連れてきなさいと弟子に命じます。
次にイエス様は、ロバの主人が困惑すると思うので、対応方法を示されました。
3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
弟子たちは命令通りにします。すると、本当にそのようになったのです。
4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。
ロバに乗られたイエスさまは、エルサレムに入城していきます。
7 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」
11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に…」
これは、メシヤ預言です。メシヤを受け入れる、歓迎する決まり文句です。
これが今日のストーリーですが、では、ここで、話をロバに戻したいと思います。
なぜ、ロバが選ばれたのでしょうか?
最も大きな理由は、旧約聖書のメシヤ預言の成就です。
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
聖書(ゼカリヤ9:9)
イスラエルが待望する王、つまり、メシヤ(キリスト)がエルサレムに王として凱旋される時、ろばに乗ってくると書いているからです。
これは、イエス様が生まれる500年以上も前に書かれた預言です。
しかも、子ロバとあります。
先ほどのマルコの福音書ではどんなロバと書いていますか?
2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
聖書(マルコ11:2)
ちゃんと、成就しています。
でも、普通、王の乗り物は馬です。
なぜ、立派な軍馬じゃないのでしょうか?
それは、ゼカリヤ書に書いています。
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
聖書(ゼカリヤ9:9)
キリストは「柔和な者」だからです。
実は、当時から馬とロバのイメージがありました。
馬は戦争と倣慢を象徴し、ろばは平和と謙遜を象徴したのです。
軍事的英雄は、馬または馬が引く戦車に乗るが、やさしい民間管理人は、ろばに乗りました。
当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていたので、ダビデのような軍事的英雄のメシヤを待望していました。
しかし、イエス様は、平和の君であり、軍事力で人々を支配するのではなく、ユダヤ人もローマ人も含む全人類のために十字架に磔にされる「謙遜」さを示す王としてこられたのです。
だから、ロバなのです。
私たちはロバの子です
教会では、よく、この箇所から子供向けにメッセージが語らえます。
「あなたはイエス様をお載せするロバです」というメッセージです。
「私たちはロバの子です」という有名な子供賛美歌もあります。
このメッセージ準備のために久しぶりにYouTubeで聞いたら、泣きそうになりました。
私たちは、他の人とよく比べて、落ち込むことがあります。
馬のように速く走れる人がいます。
ライオンのようなに力が強い人がいます。
すごいな。かっこいいな。憧れるけど、自分を見たら、全然だめ。
まるで、「ただのちっぽけなロバ」だ。
あの人のように、早く仕事できないし、かっこよさも、人を惹きつける魅力やリーダシップもない。
でも、そんな、「ただのちっぽけなロバの子」も神様のお役にたてるんです。
むしろ、馬でもなく、ライオンでもなく、ロバ、しかも、ロバの子が選ばれたのです。
この賛美は、このメッセージは、私たちに勇気を与えるんです。
人と比べなくてもいい。こんな私も主が使ってくださる。
これはすごいことです。
王であるメシヤのエルサレム凱旋に用いられる尊い、光栄な任務です。
しかし、このメッセージには大きな落とし穴があります。
それは、今日の箇所の主役は、ロバではなく、あくまでも「イエス・キリスト」だからです。
よく、今日の箇所から、ロバが柔和なようなイメージを受けますが、柔和と書いているのは、イエス様です。
イエス様に用いられれたロバがすごいのではなく、ロバだろうが、馬だろうが、上に乗ってられる方がすごいのです。
もし、今日のメッセージの適用が、「ロバになりましょう」なら、「馬のように速く走れる人」はロバのようにわざとゆっくり走るように生きなければいけないのでしょうか?
そんなことはありません。
「馬のように速く走れる人」は馬として、イエス様を載せてください。
2000年前はイエス様はロバに乗ってエルサレムに来られましたが、これから起こる再臨のときには、イエス様は馬に乗って来られるのをご存知でしたか?
それも白馬です。
11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。
聖書(黙示録19:11-13)
12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
再臨時は、「血に染まった衣」をまとっています。なぜ、神の怒りによって、諸国の悪を裁く、軍事的な王として来られたからです。
再臨時に、イエス様は剣で悪党を殺しまくります。
「きゃーそんなイエス様、イエス様じゃない~」と思いますか?
あなたはイエス様、神がどういうお方かを聖書から知りません。
あなたのフィルターで神をみてはいけません。
私たちの主であるイエス様は、柔和でロバに乗られる方でもある一方、世界を正義によって正く治める軍事的なお方でもあるのです。
神が悪を裁かないのは、あなたの家族を殺した犯罪者をそのままにしておく腐敗した警察や裁判官のようなものです。
正しい裁きは、愛の表裏一体なのです。
つまり、「ロバになりましょう」が今日のメッセージではないのです。
今日のメッセージは、どんなロバかということです。
ん?どういうこと?
みなさん、ロバってみんな大人しく従順なわけではないんです。
野生のロバは不従順で獰猛です。
彼は、野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」
聖書(創世記16:12)
ここでは、アブラハムの息子、イサクの兄のイシュマエルが野生のロバに例えられていますが、野生のロバは獰猛なのです。
全てのロバが大人しく従順なわけではないのです。
どんなロバが用いられたのか?
獰猛なロバは人を乗せるには使い物になりません。
キリストをお乗せできるロバは、ロバは、主人がいるロバです。
そして、ロバであるあなたの主人は、イエス・キリストでなければいけません。
3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。
聖書(マルコ11:3)
「主がお入り用なのです」と言われたら、すぐに自分を差し出す従順さがあるか?が重要なのです。
終わりに
私たちは、もしかすると、いつも「自分に焦点が当たっている」のかもしれません。
自分は、ロバか、ライオンか、馬か。他の人はどうなのか?
今は状況が悪いからできないとか。
しかし、大切なのは、この子ロバにとって、大変名誉なことは、メシヤであるイエスさまをお乗せしたことなのです。
大切なのは、キリストに焦点を当てることなのです。
私たちは、キリストが栄光をお受けになるための、しもべでいいんです。
今日、一旦自分から目を話しましょう。
「主がご入用なのです」という言葉を待ち望み、準備しましょう。
自分勝手に人生を生きる野生のロバではなく、主人を乗せるために用いられる従順なロバになりましょう。
自分勝手に生きる人は、神に用いられることはありません。自分は栄光を受けるかもしれません。しかし、神が栄光を受けることはありません。
しかし、神に用いられたいなら、イエスさまはあなたを用いられます。
自分は栄光を受けないかもしれません。しかし、あなたは神に栄光を帰すために用いられる特権にあずかるのです。