すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
聖書(マタイ26:33)
はじめに
「過労死」と言う言葉を聞いたことあるでしょうか?
たくさん働きすぎて、心身の健康を壊して死に至ると言うことです。
それくらい、日本人には頑張り屋さんが多いと言うことです。
ここにも、頑張り屋さんがいると思いますが、一つお聞きします。
「なぜ、そんなに頑張っているのでしょうか?」
ちょっと、意地悪な質問に聞こえるかもしれません。
でも、私たちは一度、立ち止まって、自分に問う必要があるのです。
「あー疲れた」「もう無理、仕事やめたい」「なんで私の人生はこんなに忙しいんだ」と思っているあなた。
「なんで、俺って、こんなに頑張っているのだろうか?」
「いやいや、俺なんて全然、頑張れない」と落ち込んでいる人も根底は同じ思いです。
「頑張らないといけない」と言う基準があって、それに到達できていない自分がいるので、「俺は頑張れていない」と責めたり、落ち込んだりしているのです。
頑張ること自体が悪いのではありません。
なぜ、頑張るのかが大事なのです。
頑張りが、人との比較、嫉妬や劣等感から来ているなら、それは今の自分への否定です。
そのままの自分では足りないと考えているからです。
自信家で努力家だったペテロ
聖書に出てくる人物の例はイエス様の12弟子のペテロです。
福音書を読むと、ペテロの人間性が隠すことなく書かれています。
彼は熱烈な行動家、大胆な自信家でした。
弟子の中で、水の上を歩いたのはペテロです。
しかも、彼が「イエス様に水の上を歩けるように命じてください」と言っています。
積極的な性格ですよね。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
聖書(マタイ14:28)
でも、その後、水を見て怖くなり溺れました。お茶目なところがありますね。
ペテロは、イエスさまをいさめさえしました。いさめるとは、「間違ってますよ」と忠告することです。
すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
聖書(マタイ16:22)
でも、やっぱり、その後、イエス様に逆に叱られます。
しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
聖書(マタイ16:23)
サタンの霊に惑わされる弱さがあります。
他にもペテロは、いろんなことを積極的にします。
イエス様のために、幕屋を作るといいます。
そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
聖書(マタイ 17:4)
これはイエス様に無視されます。
イエス様が足を洗ってくれた時、手も頭洗ってという図々しさがありました。
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
聖書(ヨハネ13:8-9)
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
これも、イエス様に正論で断られます。
自信を砕かれたペテロ
まあ、福音書を見る限り、ペテロは積極的で、頑張り屋さんであることがわかるのです。
彼は、イエス様の一番弟子だという自負もあったのです。
それが、わかる出来事がこれです。
イエス様が、十字架にかかる前夜に、「私は十字架にかかって死んで、よみがえる」と弟子たちに話した時でした。
すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
聖書(マタイ26:33)
彼は、自分は絶対つまずきません。つまり、あなたが十字架刑にかかっても、信仰を捨てません。
私はあなたを信じ続けるし、絶対に裏切りません。と言ったのです。
すごい、自信です。
しかし、今日のメッセージのポイントは彼がどれだけ大きな自信があったかではないんです。
彼の言葉に注目しましょう。
すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
聖書(マタイ26:33)
「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
わかりますか?
これは、他の人との比較なのです。
他の人が裏切っても、私は裏切りません。
私は他の人とは違います。他の人より、信仰深いです。
つまり、ペテロは、他の弟子よりも、イエス様に認められるために、愛されるために、この発言をしていたことがわかります。
むしろ、今までの言動全ては、他人よりも認めてもらうために、頑張っていたと言うことが、この一言からわかるのです。
さっきまで、ペテロの言動をみてきましたよね?
その時は「あーペテロってお茶目だな。一生懸命なんだな」くらいしかわかりません。
でも、みことばを深く掘っていくと、彼の言動の奥底には、「他人よりも認められたい」と言う動機が潜んでいるのです。
実は他の箇所を見ると、ペテロを筆頭に、12弟子は皆、俺が一番弟子だと比較・競争していたことがわかります。
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
聖書(マタイ18:1)
彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
聖書(マルコ9:34)
頑張って、イエス様に認められようとしたペテロは、このあと、大きな挫折感を味わうことになります。
イエス様の預言の通り、その日の夜、つまり、ペテロが裏切りませんと宣言した直後に、イエス様は逮捕されます。
46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
聖書(マタイ26:46-47)
47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
12弟子の一人のイスカリオテのユダの裏切りで、十字架にかけられるために、イエス様は連行されます。
十字架につけられるためにイエス様が連行された時、ペテロはどうしたのでしょう?
なんと、最初は彼の積極性の性格なのか、他の弟子と俺は違うぞアピールなのか、剣でイエス様を守ろとします。
50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
聖書(マタイ26:50-51)
51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
もちろん、ここでも先走って、イエス様に怒られます。
ここまでは、きっとペテロは本当にイエス様が十字架にかかるとは思ってもいません。
しかし、その後、イエス様が本当に連行されて、周りが物騒になっていくと、彼は急変します。
69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
聖書(マタイ 26:69-75)
70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
74 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
つまり、恐ろしくなって、「私はイエスなんて男知りません!」と3回否定します。
ここからわかることは、自分の頑張りで神に認められることは無理だとだということです。
いや、むしろ不要です。
神様もそんなことを求めていません。
皆さんが救われた時、頑張りによって救われましたか?
違いますよね。
自分が 罪人であって、100%恵みで救われたんです。
だからそもそも神様は私たちが自分の頑張りによって神に認めてもらおうとか、人に認めてもらおうとか、そんな事はそもそも求めていないと言うことです。
他の人は関係ない
その後、イエス様は復活してペテロに現れます。
実際、ペテロが裏切ったのにもかかわらず、イエス様はペテロに変わらない愛を持って命じられます。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
聖書(ヨハネ21:15)
私の羊を飼いなさい。つまり、あなたを信頼し、あなたに私の弟子たちを導くリーダーとしての責任を与えようということです。
あえてペテロに「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」と聞くことで、人と比較するペテロの弱さを突いています。
今までのペテロなら「もちろんです!他の弟子たち以上に愛してます!」と言うはずです。でも、ペテロは、何とも歯切れの悪い、「あなたが知ってます」としか言えません。
しかし、残念なことに今日のメッセージはここで終わりません。
イエスを裏切ったことでペテロが変わった。私たちも同じように自分の頑張りを止めて、神様に頼っていこう。そんな簡単にいきません。
実は、この直後もペテロは、比較意識が抜けていないことがわかります。
20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
聖書(ヨハネ21:20-22)
21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
イエス様は、他の人がどうなるのかは、あなたに関係あるの?と正論で返します。
じゃあ、ペテロは一生、変わらなかったのか?
いいえ。
彼が本当に解放されるのは、聖書で言えば、使徒の働きと言う書に入ってからです。
そこでのペテロは別人になります。
初代教会の指導者になります。
ペテロによる手紙を書いて、それが聖書になります。
私たちは彼の手紙を神の言葉として読んでいるのです。
なぜ、使徒の働きに出てくるペテロはかわったのでしょうか?
何が、起こったのでしょうか?
わかる人いますか?
そうです。
使徒の働き2章の、聖霊降臨、ペンテコステの出来事です。
つまり、私たちが完全に他人との比較から解放されるには、聖霊の力、聖霊の満たしが必要なのです。
頑張り屋のあなたが、頑張りすぎをやめるには、頑張っては無理です。
頑張り屋は、頑張るのをやめようと、心理学を学んだり本を読んだり、頑張って頑張らないように頑張るという皮肉が起こるのです。
終わりに
私たちも、人と比較する必要はありません。
認められようと頑張る必要もありません。
むしろ、神様がすでに私たちを認めているからこそ、失敗しても変わらずに「私の子羊を飼いなさい」と重要な任務を任せてくださるのです。
神様から任せられた人は、プレッシャーよりも、単純に神様のために働きたい、神様の役に立てることを喜びにするのです。
それを可能にするのは、聖霊の力しかありません。なので私たちは日々聖霊に満たされて、神に認められ、神から愛されていると言うことを頭だけではなく、信仰によって体感し、神から与えられた使命を果たしていきたいと思います。