10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
聖書(出エジプト3:10-11)
11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
はじめに
日本では、褒められた時や何かを達成した時は、 「いえいえ、私なんて」と自分を低く表現する方が、謙遜な人だと思われます。
よく言われるのが、「海外で普通に謙遜したら、変な目で見られてしまった」という失敗談です。
過剰に謙遜すると、「ネガティブな人物」、「自分に自信がない」、「セルフ・エスティーム(自尊心)に問題がある」とのレッテルを貼られ、周りの信用を失くすことにも繋がることもあるそうです。
それだけではなくて、 相手がせっかく言ってくれたことに対して、「いえいえ私なんて」と言うのは、 よく考えてみれば否定です。
つまり、「私はそうだと思いません」「それは間違っています」と言う意味です。
私たちは、このような日本人的な習慣に慣れているので、実は無意識に、当たり前に、神様が言っていることにまで、「いえいえ、私なんて」と言っていることがよくあります。
もちろん、普通に考えて、神様が言っていることに対してまで、否定する姿は謙遜ではありません。
実は、聖書の中にも神様が言ってることに真っ向から否定した人物が出てきます。
それは、 聖書を読んだことない人でも知らない人はいないあの有名なイスラエルの指導者モーセです。
謙遜もどきだったモーセ
モーセは神様の言葉を何度も拒否しました。
今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
聖書(出エジプト3:10)
この箇所の背景は、神様が、エジプトで400年も奴隷状態にあったイスラエルの民の苦役の叫びを聞き、彼らを救出するために、モーセと言う指導者を召し出すところです。
神様は、モーセをエジプトのファラオに遣わし、当時奴隷だったイスラエルの民を出エジプトさせると言いました。
しかし、モーセの神様への返答によく注目してください。
モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
聖書(出エジプト3:11)
とても謙遜な返答に一見見えますが、これは神の言葉に対する否定です。
モーセの焦点は神の言葉ではなく、その働きに見合わないように思える「自分」でした。
でも日本人のように「いえいえ、私なんて」 と言って神の言葉を否定しているんです。
一瞬、これは謙遜に見えます。
しかし、これは隠れた自己否定からくる「謙遜もどきパターン」です。
ある牧師は、このような反応を「へり下り傲慢」と言い、意外とクリスチャンに多いと言います。
もちろん、自分の罪深さを認め、「私には何もありません」と徹底的にへりくだることは大切です。
しかし、神様が「あなたにこれをして欲しい」と命じられるなら、「いえいえ、神様はそう言われますが、私にはできません」といってはいけません。
それは、「神様、あなたは間違っています」と言っているのと同じだからです。
「神様が(自分がどんなに不足していると思っていても)あなたに任せた」なら、間違いはありません。
確かに私たちは失敗するかもしれません。やり遂げる力がないかもしれません。
しかし、神様が助けてくださることを信じるのが信仰です。
実際、このように指定する人は、長年培った経験や、凝り固まった思考の型により、同じパターンを繰り返します。
なんと、イスラエルで最も人気の高い聖書の人物、多くの人が尊敬するあのモーセ。
彼はこの後も、自己否定し続けます。
その中でも、3つの言葉に注目したいと思います。
①誰も私の言葉なんか聞かない→思い込み
モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
聖書(出エジプト4:1)
これは思い込みです。
だって、モーセの言っていることは、本当でしょうか?
本当にモーセの言葉を聞かないのでしょうか?
もちろん、中には聞かない人もいるでしょう。
でも、彼は言いすぎているのです。
「誰も聞かない」と全ての人が聞かないというのは極端です。
「カール・ロジャースの2:7:1の法則」 と言う人間関係の法則を 知っている人はいるでしょうか。
これは、「10人いれば、2人は気の合う人、7人はどちらでもない人、1人は気が合わない人」というものです。
つまり、この法則に乗っ取ると、普通に考えて、9割があなたを否定していない、裏を返せば好意的であるということです。
しかも、問題はモーセは「神の言葉」を信じていません。
むしろ、自分の思い込みが強すぎて、耳に入っていないようです。
事実、神様はモーセにこのように言っていたのです。
モーセよ、「彼らはあなたの声に聞き従う」とすでに約束されていたからです
彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』
聖書(出エジプト3:18)
神がそうなると預言されたなら、そのようになるのです。
でも、モーセは、「誰も私の言葉なんか聞かない」と言い切ります。
これは、不信仰以外の何者でもないのです。
ちなみに、神は「彼らがモーセの言葉に聞き従う」だけじゃなく、敵対するエジプト人すらも「好意を持つ」と約束されたのです。
わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。
聖書(出エジプト3:21)
これらの神の約束を聞いた後で、モーセはですが彼らは私の声を聞き入れないでしょうと言ったのです。
②自分は口下手→コンプレックス
モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
聖書(出エジプト4:10)
ほど、でも彼らは私の声に耳を傾けないでしょうと言ったモーセに対して、神様はあなたの手にある杖を投げたらそれが蛇に変わる。
つまり、奇跡によって彼らが信じるようにしなさい。とあくまでも自己否定を続けるモーセが安心するように、対策を与えました。
皆さんどうでしょうか。自分の手にある木の枝が、生きている蛇に変わったら、まぁ普通はこれはなんかすごい力があるに違いないってなりますよね。
でも、モーセはまた新たな理由を持って神の言葉を否定するんです。
それは、私は言葉の人ではありませんと言う理由です。
言葉の人ではありませんと言う意味は、話が上手ではないと言うことです。
実際、モーセは旧約聖書の最初の5つ、創世記、 出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つを書きました。
これらはモーセ五書とも呼ばれ一般的にはモーセが書かれたものとして知られています。
つまりモーセは書くことが非常に上手だったことがわかります。でも彼はスピーチ、喋るのは得意ではなかったようです。
まぁでもこれは実際彼の自己評価なので、2,000,000人以上のイスラエルの民を導く能力的には、私たちから見たら勇敢なスピーチはしていたと思います。
事実聖書には、彼がイスラエルの民の前でメッセージをしている箇所が何度も出てきます。
私たちも神様から何かを命じられた時、自分のコンプレックスを言うことがあります。
モーセのように私は喋るのが得意じゃないとか、逆に私は書くのが得意じゃないとか、私は人間関係やコミニケーションが苦手だとか、私は頭が良くないとか、私は能力が足りないとか、 これは人によって違うでしょう。まぁ実際このように自分のコンプレックスを理由にする人は、次から次えと自分のコンプレックスが溢れできます。
この自分は足りないからと言うコンプレックスは、自分の能力だけじゃなく、例えばお金がないとか、時間がないとか、あらゆる不足に対して使われます。
またも神の言葉を否定したモーセに対して、神様は怒ったでしょうか?
いいえ。神様はまた、モーセを励まします。
今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
聖書(出エジプト4:12)
つまりあなたが口下手でも大丈夫。私があなたの口を通してかかるからと約束をされます。
さすがにモーセは決断したかなぁと思いますが、彼はしつこいくらい否定を続けます。
③他の人に頼んでください→比較意識
すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
聖書(出エジプト4:13)
もう逃げられなくなったモーセは、そんなのもうどうでもいいです。他の人にしてください。なんで私なんですか。そのように否定します。
神は自信を与えてくださる
皆さん。このような人が周りにいたらどうでしょうか?
ちょっとイライラしませんか?
さすがに神様もイライラすると思いますよね?皆さんどう思いますか?
はい。さすがに神様もブチ切れます。
神様なら、怒らなさそうだと思ったでしょうか?
神様ちゃんと怒ります。
すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。
聖書(出エジプト4:14)
あなたの兄アロンがいるじゃないか。アロンがあなたを助ける。あなたは1人じゃないよ。と励ますんです。
①誰も私の言葉なんか聞かない→思い込み
②自分は口下手→コンプレックス
③他の人に頼んでください→比較意識
今日のメッセージを聞いて、ちょっと安心しませんでしたか?
あの偉大な指導者モーセも、私たちから見ても「ちょっともモーセ、さすがにやり過ぎだろ」と思うくらい否定しまくってます。
なぜ、モーセがこのように否定し続けたか。実はそこには理由があります。
40年前にエジプトの王子として、大きな失敗をして、荒野に逃げたことがトラウマになっているのでしょう。
私たちも誰もが、小さい時は失敗を恐れず、割と自信満々で、何事にもチャレンジしていた過去を持っている人も多いです。
しかし私たちは人生経験を通して、失敗し、人から嫌われ、恥ずかしい思いをして、いつの日から、
「自分はあまり、しゃしゃりでないほうがいいんだ。毎日ないほうがいいんだ。どうせ自分なんてまた失敗するんだ。おとなしくしていたほうがいいんだ。」
そのような思考回路に変わっていくんです。
もしかしたら、皆さんの中にも、今までの過去の経験から、モーセのように、自己否定をしてしまう癖が身に付いている人がいるかもしれません。
しかし、神様は根気よくモーセを励まされます。
神様が、約束した事は、絶対にそのようになるので、神様はあきらめないんです。
終わりに
私たちはどうでしょう?
「私なんて能力がない」「私なんてどうせ失敗する」「私なんて誰も求めていない」
その言葉は他でもない、あなたの言葉、自己否定です。
神様は「そんなあなたにやってもらいたい」と言われるのです。
どう答えれば良いでしょうか?
「こんな私ですが、神様が言われるなら役に立ちたいです」とそのままの自分で神様の働きに進むことです。
助けはどこから来るのでしょうか?もちろん、神様の命令ならば、神様の約束ならば、神様からきます。
1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。
聖書(詩篇121:1-2)
2 私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。
神様、「いえいえ、私なんて」と無意識に自分を否定する癖があります。でも神様が言われるなら素直に答えたいです。何をすべきが教えてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。