しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」
聖書(エレミヤ38:19)
はじめに
頼まれた仕事を断れずにいつも残業してしまう。
誰かに変に思われたら嫌なのでいつも本心は隠している。
そんな経験ありませんか?
心理学者アルフレッド・アドラーの思想を、物語にしてまとめた嫌われる勇気というベストセラー本があります。
その本の中に「誰からも嫌われたくないという人は、他人の期待を満たすために生きている」という内容があります。
誰にも嫌われたくないと常に人の目を気にする人の根本も自己否定です。
なぜなら、自分に自信がないので、人の評価を気にしてしまうからです。
とは言っても、円滑なコミュニケーションを築くには、ある程度、人に合わせることも必要です。
聖書にも、誠実、謙遜、礼儀、柔和などの人格的な部分の重要性を説いています。
人に合わせる動機が、相手への「愛」ならば、それは立派な愛の行為です。
なんでもかんでも自分の意見を主張し、周りの意見に無関心な人になりましょうと言う意味ではないのです。
しかし、人の目を気にしすぎると、神様のことばまでも無視し、人生が破壊される可能性があるのです。
人の目を気にするゼデキヤ
聖書の中で、人の目を気にする自己否定人物は、ユダ王国のゼデキヤ王です。
彼は、人の目を気にする王様でした。
当時のユダ王国は、中東を支配していたバビロンに今にでも攻められるという危機的状況でした。
実際、この箇所のあと、BC586年に、ユダ王国はバビロンに攻められ陥落します。
王であるゼデキヤは、預言者エレミヤを呼び出して、王として、この危機に対し、何をすべきかについての神の預言を聞きました。
ゼデキヤ王は人を送って、預言者エレミヤを自分のところ、主の宮の第三の入り口に召し寄せた。
聖書(エレミヤ38:14)
ゼデキヤ王は、エレミヤを自分のところに呼びました。
王は監視の庭にとどまっていたエレミヤを、「主の宮の第三の入り口」とはどこでしょうか?
聖書のここだけに登場するこの入り口がどこにあったのかは、確認のすべがありませんが、おそらく王だけに許されていた場所と考えられます。
つまり、王は誰にもバレない特別な入り口でひそかにエレミヤと会ったのです。
ここですでに、ゼデキヤは人の目を恐る王であることがわかりますね。
なぜ、一国の王が預言者と会うのに、人の目を恐れたのでしょうか?
預言者から秘密を暴露されれることを恐れたのでしょうか?
違います。
当時のエレミヤはユダ王国の中で唯一、神の御心をストレートに人々に語っていました。
神の御心とは、当時のユダ王国がバビロンに滅ぼされると言うことです。
なので人々に「神に悔い改めて、バビロンのバビロンに降伏しなさい」と語っていたのです。
しかしこれは当時のユダの人々にとっては受け入れがたいことでした。
エレミヤには多くの反対者がいたのです。
実際、今日の箇所の前で、エレミヤは「ユダが滅亡する」と民全体に預言したことで、政府管理の牢獄の中に入れられます。
3 主はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」
聖書(エレミヤ38:3-6)
4 そこで、首長たちは王に言った。「どうか、あの男を死刑にしてください。彼はこのように、こんなことばを皆に語り、この都に残っている戦士や民全体の士気をくじいているからです。実にあの男は、この民のために、平安ではなくわざわいを求めているのです。」
5 するとゼデキヤ王は言った。「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」
6 そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなく、あるのは泥だったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。
なので王が、エレミヤから神の言葉を聞こうなんてことがわかると、王に対しての民衆の暴動が起こることが簡単に予想できたのです
今の箇所でも、ゼデキヤが人の目を恐れて行動していたかが、わかりましたか?
するとゼデキヤ王は言った。「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」
聖書(エレミヤ38:5)
やばいセリフですよね。
なんで、王が首長たちに逆らっては何もできないのでしょうか?
なぜ、それを王が言うのでしょうか?
リーダーシップのかけらもないし、自分の決断で人から批判されたりする責任を取りたくないのでしょう。
日本でも首相が決断を、都道府県知事に委ねるという場面がありましたね。
その時、ある知事は、政府のリーダーシップを批判しました。
首相が決断してくれないと困る。なぜ、私たちに責任を押し付けるのか?と。
当時いたほとんどの預言者は、「私たちはバビロンに勝つことができる」と偽りの預言をしていました。
当時のエレミヤ以外のほとんどの預言者は偽預言者だったということです。
つまりこの偽預言者たちも人々の目を恐れて、人々が喜ぶことを嘘だとしても語っていたと言うことです。
14 王がエレミヤに、「私はあなたに一言尋ねる。私に何も隠してはならない」と言うと、
聖書(エレミヤ38:14-18)
15 エレミヤはゼデキヤに言った。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず私を殺すのではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞かないでしょう。」
エレミヤは言います。
どうせ、真実を預言しても、あなたは聞かないでしょう。聞くないでしょうと。
16 そこでゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓った。「私たちの、このいのちを造られた主は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちを狙うあの者たちの手に、あなたを渡すことも絶対にしない。」
聖書(エレミヤ38:16)
王は「大丈夫だから、私はあなたを殺さないし、他の人からあなたを守るから」と約束して、もう一度、神の預言を聞かせてと言います。
17 すると、エレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、主はこう言われる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのたましいは生きながらえ、この都も火で焼かれず、あなたもあなたの家も生きながらえる。
聖書(エレミヤ38:17-18)
18 あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、あなた自身も彼らの手から逃れることができない。』」
エレミヤは、以前と変わらずに、「ユダの滅亡」の預言を伝えます。
王はユダの滅亡や降伏ではない、希望のある別のメッセージを願っていたから、このように尋ねたのでした。
しかし、エレミヤは、変わりません。
当たり前ですよね。
神の預言が変わるわけないのです。
では、 ゼデキヤはどう反応したのでしょうか?
しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」
聖書(エレミヤ38:19)
ゼデキヤは、すでにバビロンに投降したユダヤ人たちが自分を嫌い、バビロンに自分を渡すかもしれないと恐れたのです。
彼にとってはユダの王国がどうなろうが関係なく、周りの人にどう思われるのかそこだけが大切でした。
エレミヤは言った。「カルデア人はあなたを渡しません。どうか、主の御声に、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたのたましいは生きながらえます。
聖書(エレミヤ38:20)
エレミヤは、神様は決してそのようにされないと言って説得しました。
もし自分の命を守るなら、この予言の言葉に従わない理由はありません。
では、ゼデキヤはこの言葉に対してどのように反応したのでしょうか?
皆さんはどう思いますか?
24 ゼデキヤはエレミヤに言った。「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは死なない。
聖書(エレミヤ38:24-26)
25 もし、あの首長たちが、私があなたと話したことを聞いてあなたのところに来て、『さあ、何を王と話したのか、教えろ。隠すな。あなたを殺しはしない。王はあなたに何を話したのか』と言っても、
26 あなたは彼らに、『王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことのないようにと、王の前に嘆願をしていた』と言いなさい。」
ちょっと難しい文章でしたかと言う意味かわかったでしょうか?
ゼデキヤはエレミヤに、自分に神の預言を伝えたことを、ユダの首長たちに知らせないように誓わせたのです。
何故でしょうか?
ゼデキヤは、バビロンに降伏すべきだと自分が聞いたことを、バビロンと戦おうとする首長たちが知ることを恐れたのです。
あくまでも、ゼデキヤの関心は周りの人にどう思われるのかと言うことでした。
彼は神の預言を聞こうとエレミヤをこっそり呼び出しましたが、それは神の言葉に聞き従おうと言う心から出たものではなく、周りにどう思われるのかを恐れた利己心から出たものだったと言うことです。
エレミヤはこの預言について周りに誰にも言うなと言われた約束を守り、他の人に聞かれても神の預言の内容をいう事はしませんでした。
首長たちがみなエレミヤのところに来て、彼に尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに彼らに告げたので、彼らは彼と話すのをやめた。あのことは、だれにも聞かれていなかったのである。
聖書(エレミヤ38:27)
しかしこの決断がユダ王国全体の破滅を呼ぶことになるのです。
本来、神が王であるイスラエル、ここではユダですが、ユダの王がすべき事は、神の預言の言葉を信じ、信仰によって周りの目を気にせず、国中の人に神の預言言の言葉を聞かせることでした。
そしてリーダーシップによって神の言葉にみんなで従おうと鼓舞することでした。
結果、彼は神のことばよりも、周りの人がどう思うかを優先し、ユダ王国は壊滅し、彼自身も両目をえぐり出され、青銅の足かせをはめられ、バビロンに連れて行かれるのです。
ゼデキヤ王は、目に見えない神よりも、目に見える人々を恐れたのです。
終わりに
私たちはどうでしょうか?
聖書を通して「神様はこう言っておられる」とわかっていても「でも、周りがどう思うか」と人の目を気にしがちです。
キリストのことを伝道するときもそうです。
「相手がどう思うか」を気にしすぎるあまり、今まで直接福音を伝えてこなかったクリスチャンも多いのではないでしょうか?
聖書では、時が良くても悪くても福音を宣べ伝えなさいと言っています。
人がどう思うかを気にする配慮は大切です。
しかし、聖書が言っているのは、人がどう思うかが、神様がどう思うかよりも上に来ていないか?ということです。
人の評価は不安定でコロコロ変わります。
そこに自分自身を委ねてはいけません。
神のことばに自己評価の土台をたてあげましょう。
逆に、預言者エレミヤは、人を全く恐れていませんでした。
私たちはここまでの話でおそらくゼデキヤ王を、だせえやつだなと軽く見ていますが、相手は王です。王は王です。
しかも、少し前に自分が死刑にされることを許可した王です。
国中、自分の敵だからです。
政府の牢獄に入れられ、泥の中に沈められる拷問を受けた直後です。
エレミヤは、そんな状況でも、相手が王でも、怯まずに、真実を告げます。
彼は人の目を恐れませんでした。
なぜ、預言者エレミヤは、人の目を恐れなかったのでしょうか?
それは、神を恐れたからです。
神の言葉、ここでは預言の言葉の上に、自分の行動、決断、運命を委ねたのです。
なぜ、あなたは人の目を気にするのでしょうか?
なぜ、あなたは他人の評価を気にするのでしょうか?
なぜ、批判されたくない。嫌われたくないと思いすぎるのでしょうか?
ベクトルが、自分にむきすぎているからです。
私たちが向けるべきベクトルは、神です。神の言葉です。
神に従うことで、誰かに嫌われるんだとしたら、問題ないのです。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
聖書(マタイ5:11)
もちろん、 神のためにと言う条件があります。
神のことばを信じましょう。
【祈り】
神様、私は人の目が気になります。でも、神様がどう思われるか、神様のことばを絶対的な土台にしていきます。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。