【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
聖書(ヨブ記 1:8(新改訳三版))
はじめに
皆さんに、質問があります。
聖書は、因果応報を認めているでしょうか?
言い換えるならば、因果応報は聖書的でしょうか?
皆さんはどう思いますか?
因果応報とはもともとは仏教語用語で、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ」という意味です。
今日取り上げる旧約聖書のヨブ記は、ヨブが、理由もなく苦しみに会うところからスタートします。
ヨブは4人の友人に激しく責められます。
「あなたが正しいならこんな苦難は起こらない」と。
ヨブも反論します。
「苦難の原因は私ではない」
実際、ヨブ記の大半はこの押し問答が延々と続きます。
どちらが正しいのでしょうか?
皆さんはどう思いますか?
「ヨブが正しいなら、こんな苦難は起こらない」という4人の友達の主張は、因果応報の考えに基づくものです。
では、一方、「私は正しいので、苦難の原因は私ではない」というヨブの主張はどうでしょう?
これも、因果応報の考えに基づくものです。
「自分は正しいから、悪いことが起きるはずがない」
付け足すとすれば、自分が悪ければ、起こるのだろうけど。俺はそうじゃない。
どちらが正しいのでしょうか?
一つずつ見ていきましょう。
ヨブの困難
①「ヨブが正しいならこんな苦難は起こらない」という4人の友達の主張→間違い
「正しいならこんな苦難は起こらない」という4人の友達の主張。
まず、これは間違っていました。
その証拠が、ヨブ記の最初に書かれています。
なぜなら、この苦難はヨブが正しくないから起こったことではなく、サタンの誘惑によるものだったからです。
6 ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。
聖書(ヨブ記 1:6-12)
7 主はサタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
8 主はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」
9 サタンは主に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。
10 あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。
11 しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
12 主はサタンに言われた。「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。
しかも、8節を見てみましょう。
主はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」
聖書(ヨブ記 1:8(新改訳2017))
【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
聖書(ヨブ記 1:8(新改訳三版))
これは、1節にも出てきます。
ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
聖書(ヨブ記 1:1(新改訳三版))
つまり、ヨブ記は、 読者に対して「ヨブが正しい人である」 と言う前提で読んでくださいと言っていると言うことです。
しかも一緒に、天上でのサタンの誘惑の話が挿入されているので、これから起こるヨブの4人の友達の話は、かなりお門違いだということが読者にはわかるようになっているのです。
でも実際私たちがヨブ記を読むと、
友達の話は合っているんだろうか?
どうなんだろうか?
とわからなくなります。
だからこうして教会で聖書のメッセージを聞くことが大切ですね。
では、ヨブの主張が合っているのでしょうか?
彼の主張は、「私は正しいので、苦難の原因は私ではない」というものです。
今までの話から、どんなに正しい人だとしても、苦難は起こることがあると言うことを学んできました。なのでこれは合ってるように見えます。
しかし、よーく考えてみてください。
ヨブはほんとに正しい人でしょうか?
そもそも、正しい人間はこの世に存在するのでしょうか?
この答えも、ヨブ記の中にちゃんと書いています。
②「私は正しいので、苦難の原因は私ではない」というヨブの主張→間違い
実はこの主張も間違っていました。
その証拠が、ヨブ記の最後に書かれています。
なんと、ヨブ記の最後に神様がヨブに現れると言うシーンが出てきます。
1 主はヨブに答えられた。
聖書(ヨブ記 40:1-2)
2 非難する者が全能者と争おうとするのか。 神を責める者は、それに答えよ。
今日のメッセージでは、説明はしていませんが、ヨブ記の途中から、夜は神様に対しても怒りをぶつけ、自分の正しさを主張するようになっていきます。
しかし神様に対して自分の正しさを主張すると言う事は、もちろん正しくありません。
神様と比較して、神より正しいと言うものはこの世に存在しないからです。そのように主張する時点で、その人は正しくありません。
ヨブは謙遜な人なので、神からこう言われたときに、神の前で自分が正しくない存在であると言うことを認めます。
3 ヨブは主に答えた。
聖書(ヨブ記 40:3-4)
4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。
聖書(ヨブ記 42:3)
つまり、ヨブ記を通して、対立してきた2つの主張はどちらも間違っていると言うことです。
「ヨブが正しいならこんな苦難は起こらない」という4人の友達の主張が間違いである。
「私は正しいので、苦難の原因は私ではない」というヨブの主張も間違いである。
しかし、ここで1つの疑問が残ります。
4人の友達の主張が間違いである理由は、ヨブが正しい人であったと言うこと。
ヨブの主張が間違いであった理由は、ヨブが正しい人ではなかったと言うこと。
よく考えてみてください。
この2つは矛盾してるように思いませんか?
でもこの矛盾していることが、ヨブ記の中で一貫性を持って描かれています。
ここにヨブ記のメッセージが隠されています。
神様が一体ヨブ記を通して、私たちに何を語っておられるのか、ここにヒントがあります。
皆さん準備は良いでしょうか?
まず、ヨブは間違いなく正しい人ではありません。
ヨブは罪人です。その面においては、私たちと何ら変わりがありません。
もちろん説明するまでもなく、聖書にもそのように書いています。
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
聖書(ローマ 3:10)
生人はいないと言う意味は、正しい人はこの世に存在しないと言うことです。
しかし、冒頭説明した通り、ヨブ記の最初は「ヨブが正しい人である」と言う説明から始まります。
この矛盾を、私たちはどのように説明すれば良いでしょうか?
これは、聖書全体を読んでいれば、つまり聖書のメッセージをしっかりつかんでいれば、全く矛盾していないと言うことがわかります。
ヒントは、誰が自分のことを正しいと言っているのか?と言うことです。
誰でしょうか?
もう一度見てみましょう。
【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
聖書(ヨブ記 1:8(新改訳三版))
神様です。
ヨブは、罪を持っており正しい人ではありません。
しかし、神様が、ヨブのことを正しいと言えば、ヨブは正しくなります。
なぜ、神は「正しくない」はずのヨブを正しい人と認めたのか?
キリストの十字架の贖いのゆえです。
当時は、まだキリストがこの地上に来られてもいないし、十字架にもかかっていません。
しかし、大事な事は、ヨブは神を恐れ、神に信仰を置いていたと言うことです。
【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
聖書(ヨブ記 1:8(新改訳三版))
ヨブは「神を恐れ、悪から遠ざかっている」と、なぜ神様が力を正しいと認めているかについての根拠が書かれています。
ヨブは神を恐れる、つまり神への信仰によって、彼は神にあって義とされたのです。
しかも、このヨブ記には、神が正しくないものを正しいとされる根拠は、キリストの十字架にあると言う奥義を示しています。
キリストは、 正しくない全人類を、正しいとするために、十字架にかかりました。
話を少し前に戻しますが、ヨブの4人の友達の主張がなぜ間違っているのか、キリストの十字架に答えがあります。
①「ヨブが正しいならこんな苦難は起こらない」という4人の友達の主張→間違い
誰かが正しいなら苦難は起こらないと言うのは間違っていました。なぜならキリストは正しいのにもかかわらず、十字架の苦難をとおられたからです。
②「私は正しいので、苦難の原因は私ではない」というヨブの主張→間違い
このヨブの主張間違っています。正しいと言い張る私たち人類のために、罪のないキリストが苦難の原因である、罪を背負ってくださったのです。
1番最初に皆さんに質問した、最初は因果応報を認めているのか?と言う問いの答えは、 YesアンドNoです。
私たちは罪を犯しているので、誰もが裁きを受けなければいけません。
これは因果応報の考えに基づくものです。
しかし、キリストは罪を犯していないのにもかかわらず、裁きを受けられました。
因果応報の考えとは反しています。
つまり、 私たちに大切なのは、因果応報のようなすべての考えや、法則によって、 どっち人生を議論することではないと言うことです。
ここに問題の解決はありません。
私たちに大切なのは、ただ、キリストの十字架を信仰によって、受け入れることなのです。
ここに問題の解決があるからです。
終わりに
私たちの人生には理解できないことが起こります。
私たちは緑の4人の友達のように、何かに原因を見出そうとして、議論をします。他人をさばき、自分を裁くこともあります。
私たちは呼ぶのように、自分にはその原因がないと、他人に反論したり、神様にまでも怒り、反論したりします。
どちらの反応にも答えはありません。
答えは、イエスキリストの十字架にあります。
十字架の前に私たちが出るるのです。
私たちは、苦難のの原因を考える必要はなく、むしろ、子供のように、正しく、私たちを最善に導かれる神様にお任せすればいいのです。
もしかすると、私たちは今、「なんでこんなことが起こったんだろう?」と思うようなことに失望しているかもしれません。
仕事の失敗、病気、家庭崩壊、人間関係の問題。
自分は悪いことしていないのに!なんで、自分はこんなに不幸なんだ!
「自分を責めないでください」
「神様を責めないでください」
この攻めは、2000年前に十字架上で、イエス・キリストが受けてくださいました。あなたの代わりに、あなたが理解できないことも含めて、左端の誘惑や左端の攻撃も含めて、イエスキリストは十字架の上で死んでくださいました。
キリストを見ました「完了した」
原因を追及するのではなく、神様は知っておられると認め、神の前にへりくだり、お任せしましょう。
そうすれば、神様は必ず最善の道に導いてくださいます。