なぜ、イエス・キリストの御名で祈るのか?「神に見捨てられたと感じるとき」聖書(ヨブ記19:13-25)

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13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。
14 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。
15 私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
16 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
17 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。
18 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
19 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。
20 私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。
21 あなたがた、私の友よ。 あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。 神の御手が私を打ったからだ。
22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。
23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、 書物に記されればよいのに。
24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。
25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。

聖書(ヨブ記19:13-25)

はじめに

ネットにこのような相談が載っていました。
タイトルは「クラスの人達に嫌われ、親にも見捨てられ、気力がありません」

今 私は中一です。
今 私は親友と言える友達がいません。
信頼できる友達もいません。

クラスの人達にはデブなので嫌われてます。
いつも「死ね死ね」と言われ とうとう 自分を傷つけてしまいました。

もう 生きる気力もありません。
自分は必要とされていない
それが つらく 悲しいです・・・。
親にも見捨てられてるし・・・
生きていくのに疲れました。

死んだほうが楽かなって最近考えます。

この投稿は2008年になされたものだったので、この方はもうすでに大人になっていると思います。
どのような人生を歩んでおられるかは分かりません

この投稿サイトには、 この記事を読んだ人の反応も載っていました。
2人に1人が「同じような経験がある」「気持ちはよくわかる」と答えていました。

皆さんも、この方と全く同じ状況とはいかないものの、今までの人生の中で、友達や同僚にいじめられたり、家族も助けけてくれない、自分の気持ちをわかってくれないように感じ、傷つき、悩んだ経験があったかもしれません。

このように、現実の例で考えると、聖書の中に出てくるヨブの人生は、全く私たちと関係のないこととは言い切れないといえます。

ヨブと対立した人たち

今日の箇所を読むならば、ヨブは3種類の人たちから、見捨てられていたことがわかります。

①親族、友人に見捨てられる(13~14節)

13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。
14 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。

ヨブがお金持ちで、事業に成功していた時の人々は、ヨブが破産し、家族も崩壊し、全身できものだらけで、惨めな姿になった途端、離れていきました。

②家族に見捨てられる(15~17節)

15 私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
16 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
17 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。

召使いや、しもべも、ヨブを無視するようになりました。
主人のヨブがお願いするという、立場の逆転が起こりました。

完全に舐められています。
奥さんにも、遠ざけられます。

③共同体に見捨てられる

18 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
19 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。

共同体とは、親友や家族の周辺の人間関係のことです。

例えば、職場の人間関係。学生なら学校。
クリスチャンでいえば、教会の人間関係も当てはまるでしょう。

自分の職場や、教会の人たちも、自分から離れていくとしたら、皆さんは、どのような気持ちになるでしょうか?

ここまでで、考えてみてください。
ヨブはどれだけの孤独を感じていたことでしょうか?

私たちが、人に見捨てられた時、人に裏切られた時、人が離れて行った時、どうすれば良いでしょうか?

皆さんだったら、どうやって、この孤独を乗り越えますか?

また、皆さんはどのようにヨブにアドバイスしますか?

もちろん、ヨブの言葉に傾聴するのも1つの答えだと思います。

しかし、「神に祈る」「神に向かう」「神に信頼する」

もしあなたがクリスチャンならば、これが模範解答です。

しかし、ヨブの発言を注意深く見ていくと、実は、ヨブは神にこそ、見捨てられていると嘆いていることがわかります。

④神に見捨てられる(13節)

13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。

神がこれらのことをしたと言っています。
つまり、神から見捨てられたという告白なのです。

皆さんは、神に見捨てられたことがありますか?

クリスチャンの特権、特権というか、慰めは、人が離れて行っても、神だけは私をわかってくれるという信仰です。
それが祈りになり、生きる希望、人生の安心感になるからです。

しかし、ヨブの最大の苦しみは、神に見捨てられたことでした。

私たちは、人に見捨てられた時、人に裏切られた時、人が離れて行った時、とてつもない絶望を感じます。

しかし、神に見捨てられることが人間の最大の絶望です。

聖書を見るならば、神に見捨てられると言う事は聖書的ではありません。
なぜなら聖書にはこのように書いてあるからです。

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

聖書(申命記31:6)

真実としては神様私たちを見放さず、決して見捨てないということです。

神に見捨てられたと感じるとき

しかし、私たちは「神に見捨てられたように感じること」はあります。

なぜ神を信じているのに、このような苦難を通らなければいけないのか?と思う時。
なぜ神は私の祈りに答えてくださらないのか?と感じる時。

神を遠くに感じる。
神が私をさばいているように感じる。
神が私を愛していないように感じる。

まさにヨブの人生に降りかかったことを見るならば、「神がいるのになぜ、私にこのようなことが起こるのか?」と神に対する疑問でいっぱいになることも理解できるでしょう。

20 私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。
21 あなたがた、私の友よ。 あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。 神の御手が私を打ったからだ。
22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。

彼の3人の友人は、ヨブを憐れむことなく、ヨブの苦難の原因を分析し、ヨブを責め続けていたのです。

23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、 書物に記されればよいのに。
24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。

皆さんが、もしヨブが通った試練を通ったならば、それでも大胆に確信を持って神は私を愛している。と前向きに日々を過ごすことができるでしょうか?

ヨブは神を愛していましたし、日々神を礼拝していました。
自分の罪だけではなく、家族の罪に対しても執り成し、全焼のいけにえを捧げるほどに、神の前で正しい生活を心がけていました。

そんな彼に悲劇が起こったんです

「なんでですか神様?」 と思わない方が異常のようにさえ感じます。

実は、聖書には、他にも神に見捨てられた人が出てきます。

今日は二人紹介したいと思います。

一人目は、ダビデです。

ダビデの生涯も、ヨブに負けない位、痛烈です。
ダビデは自分が信頼していた上司であるサウル王に命を狙われます。

皆さんもご存知の通り、ダビデに何か原因があったからではありませんでした。
むしろダビデは積極的に命をかけて、サウルのために戦い抜き、サウルのために琴を演奏して徹底的に使えていました。

しかし、サウルは ダビデに嫉妬して、なんと10年間もイスラエル中を、ダビデを殺すために追いかけ続けます。

しかもその状況で、ダビデから仲間や、友達も去っていきました。

私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって かかとを上げます。

聖書(詩篇 41:9)

しかも、最終的には、ダビデは神にまで見捨てられたと、信仰がどん底にまで落ち込んでしまいます。

1 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
2 わが神 昼に私はあなたを呼びます。しかし あなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。

聖書(詩篇 22:1-2)

ダビデのような偉大な王であっても、神様の前ではいち、信仰者として、信仰が成長するために試練に会うと言うことを私たちは知ることができます

二人目は、キリストです。

実は先程の詩篇22編のダビデの告白は、メシア預言と言われています。事実キリストは全く同じ言葉を、十字架上で告白しています。

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

聖書(マタイ27:46)

キリストこそが、決して見捨てることのない神から見捨てられ、見放されたのです。

なぜでしょうか?

それは罪を憎み、罪人とは一緒に住むことのできない位、きよい存在である神に、私たち人間が近づくために、私たちの罪を背負い、私たちの代わりに神から見放されてくださったからです。

私たちが、ヨブのように、ダビデのように、神から見放された、見捨てられたように感じてしまう時、どのようにすれば良いのかの答えがここにあります。

神と人間の仲介者イエス・キリストを呼び求めることです。

なぜ、私たちが、決して見放さないと言われた神に、見放されてるように感じてしまうのか?
なぜ、神が遠い存在と感じてしまうのか?
そもそも、なぜ、神がわからなくなっているのか?

それは私たちの神が、私たちは決して近づくこともできない位、きよいお方であるからです。
そしてそのきよいお方と対照的に、私たちは頭のてっぺんからつま先まで罪でまみれている罪人だからです。

神は私たちを見話したくありませんが、私たちの罪が、神との距離を遠くしていると言うことができます。

その距離感の原因である、罪の裁きを受けるために、キリストは人間の姿をとって、私たちの全人類の罪を背負い、代わりに罪人として神から見放されてくださったのです。

このイエス・キリストを信じるだけで、私たちは罪が許され、 どんなに私たちが神が遠くに離れていると感じたとしても、神との距離が近くなっています。

イエスキリストを信じるならば、その人の内側には聖霊が住まわれます。
聖霊は私たちに神が近くにいると言うことを教えてくださいます。体験させてくださるんです。

箇所の最後のヨブの告白を見てみましょう。
皆さんはここの中に、イエス・キリストがおられることに気づいていたでしょうか?

25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。

家族に、友達に、周りの全ての人から、見放され、見捨てられたヨブでした。
そしてその原因が神が起こしているとしか思えない位、神にさえも見捨てられてるように感じたヨブでした。
しかし彼はこのように告白していたのです。

私を贖う方は生きておられ、私と神の間の仲介をしてくださる。

キリストは、土の上に立たれました。それは神の御子である方が、その姿を取り、この地上に来てくださったと言うことです。

5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

聖書(1テモテ2:5-6)

終わりに

私たちも、家族や、友達、職場や学校、周りの人々から見放されてるように、見捨てられてるように感じる出来事があるかもしれません。
信頼していれば信頼しているほど、傷つきます。

そして、今の自分の悲惨な状況を見ると、神がいるのになぜ?と神に対して怒りをぶつけたくなる時があります。
また神に見捨てられてるように感じ、どうせ自分なんかと卑屈になってしまうこともあるでしょう。

しかし、皆さん、イエス・キリストに心を向けましょう。
イエス・キリストの御名によって神に大胆に祈りましょう。

なぜ、私たちは祈りの最後にイエス・キリストの御名によって祈るのでしょうか?
それは私たちの祈りが、イエスキリストの十字架の死と復活によって、イエス・キリストの名前のおかげで、聖なる神に届くからです。

私たちが素晴らしいことを知っているから、祈りが聞かれるのではありません。
私たちがどうしようもないから、祈りが聞かれないのではありません。

私たちが神の前で、自分が罪人であることを認め、謙遜に祈る時、イエスキリストの名前のゆえに、イエス・キリストの十字架の死と復活のゆえに、私たちの祈りが聖なる神に届くのです。

ですから今、状況がどんなにひどくても、神に見放されてると感じていたとしても、イエス・キリストの御名によって、イエス・キリストの御名を信じて、ともに神様に祈りたいと思います。

皆さん、神様は決してあなたを離さず、決してあなたを見見捨てません
何故でしょうか、 それはイエスキリストの御名のゆえです。

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

聖書(申命記31:6)
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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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