36 さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
聖書(ルカの福音書7:36-48)
37 すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
38 そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
39 イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。
40 するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
41 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
42 彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
43 シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
44 それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
45 あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。
46 あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
48 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
初めに
「きみは愛されるため生まれた」と言う賛美を聞いたことがあるでしょうか?韓国のイ・ミンソプさんが作った曲で、日本の多くの教会で耳にします。
間違いなく、「あなたは神に愛されている」と言うのが聖書の中心メッセージであると思います。
では、ここで、皆さんに質問をします。
あなたは、イエス様を愛していますか?
はい。
では、どれだけ愛していますか?
あなたがイエス様に愛されていることは、揺るがない事実です。
なぜなら、それは聖書に書いてあるからです。
聖書に書いてあるなら、それは絶対的な真理であって、誰が否定しようが、あなたは神に愛されているのです。
しかし、「あなたが神を愛しているか」は聖書に書いてないのです。
それはあなたしか、わからないのです。
私は毎回メッセージを準備するときに、「神様がガーデンチャーチに語りたいことは何ですか?」とまず祈ります。
そのとき、神様の心が迫ってきまいた。
「あなたは私を愛しているのか?」「あなたは私をどれだけ愛しているのか?」
いつもメッセージでは「私たちは愛されてる」と言うことが中心となりますが、「私たちがイエス様を愛しているかどうか」も同じくらい大切であると言うこと。
もし、私たちがイエス様を愛しているつもりでも、愛していないなら?
愛が冷めていたり、関係ないことに時間とエネルギーを費やして、なんとなく形だけの「クリスチャン」をしていたら?
これは、大きな問題でしょう。
形だけの冷め切った夫婦関係と同じです。
今日は、マリアのストーリーから、「あなたはイエス様をどれだけ愛していますか?」と言うタイトルで私たちの心を神様に探ってもらいましょう。
あなたはイエス様をどれだけ愛していますか?
今日の重要な登場人物は三人です。
パリサイ人のシモン。弟子じゃない。
罪深い女マリア。他のマリアじゃない。ヨハネの福音書にマリアと名前が出てくる。
イエス様。
パリサイ人とは当時の旧約聖書のエキスパートであり、イスラエルの指導者的な存在とも言えます。
彼らの多くは、イエスをキリストとは認めないので、ちょっと悪い宗教家みたいなイメージです。
イエス様は、そんなパリサイ人に食事に招かれました。
さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
聖書(ルカ7・36)
その中の一人にパリサイ人のシモンがいます。
そんなパリサイ人だからけの状況の中、なぜか、一人の女性が乱入してきました。
すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
聖書(ルカ7・37)
この女性は、「罪深い女」でした。
不道徳な女という意味で、その町の遊女です。今で言う風俗嬢です。
パリサイ人にとっては迷惑です。彼らは罪深い人とは距離をとっていたからです。
マリアにとって、偏見と差別の中で、イエス様に会いに来ることは、とても勇気のいることでした。
そんなマリアは驚くべきことをします。
石膏のつぼを割って、そこに入っていた香油をイエス様の足に塗ったのです。
そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
聖書(ルカ7・38)
並行箇所のマルコ14:3-5をみれば、香油は超高級化粧品だったことがわかります。
さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
聖書(マルコ14・3-5)
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
三百デナリとは、労働者の一年分の給料です。
日本人の平均給与は「433万円」なので、現代で言うならば、マリアは「433万円」分の香油をイエス様のために使ったのです。
そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
聖書(ルカ7・38)
なぜ、この女性はイエス様の足を洗ったのでしょうか?
当時、道は舗装されておらず、履き物は大体サンダルなので、汚れたイエスの足を洗うためです。
しかし、それだけじゃありません。
マリアはただ足を洗っただけでなく、「泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った」のです。
〈涙〉は悔い改めと感謝と喜びの涙です。
〈足〉への接吻はユダヤ教の註解書『タルムード』にも実例が記されており、最高の感謝と謙遜の表現です。
マリアがしたことをまとめましょう。
- ①人の目を気にせずイエス様に会いにきた
- ②高価な香油を捧げた
- ③涙を流し足を洗って口づけした
これは、一言で言ったら、どう言うことですか?
「真心からイエス様を愛して、それを行動で示した」と言うことです。
パリサイ人シモンの心内
この女性の行動と対照的なのが、パリサイ人シモンです。
イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。
聖書(ルカ7・39)
このパリサイ人シモンの心を見抜いたイエス様はこのように言います。
するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
聖書(ルカ7・40-43)
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
イエス様は、500デナリの借りのある者と50デナリの借りのある者のたとえを語られました。
2人が借金を赦してもらったとき、どちらがもっと主人を愛するようになるかとシモンに尋ねられたのです。
500デナリの借りのある者だとシモンが答えますが、次のイエス様の言葉から、実はこの例えは、シモンとその女のことであったのです。
つまり、シモンは自分は500デナリの借りのあるマリアとは違う。50デナリの借りしかないと思っていたので、イエス様への愛が欠けていると言うのです。
しかし、イエス様の目から見れば、シモンも罪人。
500デナリの借りのあるマリアと何も変わりません。
問題は、彼が自分の罪深さに気づいていないと言うことです。
だから、マリアを差別したのです。
それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
聖書(ルカ7・44-46)
あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。
あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
イエス様は、シモンのイエス様への無礼な態度、愛のなさを指摘しました。
イエス様の目には、というか、イエス様側からしてみれば、罪深いとされているマリアの行動よりも、シモンの行動の方がよっぽど罪深いと判断できるわけです。
- ①人の目を気にせずイエス様に会いにきた⇄心の中で女とイエス様を裁いた(自分は罪人ではないと言う傲慢さ)
- ②高価な香油を捧げた⇄もったいないと女を責めた(偽善)
- ③涙を流し足を洗って口づけした⇄イエス様に何もしなかった(実は愛がない)
本来、客人の足を洗うのは招いた人がするべき礼儀でしたが、パリサイ人はイエスの足を洗わなかったのです。
まあには罪赦された者の感謝と愛がありましたが、シモンにはそれがなかったのです。
この箇所からの今日、神様が私たちに語っておられるメッセージは、私たちこそがシモンであると言うことです。
シモンは、罪深い女がいかに汚らわしいか、イエス様がいかに間違っているか、香油を売ったらもっと多くの人の慈善活動に使われたのに勿体無いと言う思いで満ちていました。
シモンは無礼で、人を差別し、神を愛していなかったのです。
しかし、シモンの問題は彼の心ではないのです。
何でしょうか?
彼の本当の問題は、彼が彼の問題に気づいていないと言う高慢さなのです。
自分はパリサイ人で聖書を知っている。
もっと施しをするべきだと人のお金の使い方に文句を言う。
罪深い女として、本当は謙遜な女性を見下している。
イエス様を偽預言者として見下している。
イエス様への愛がない。
そのことに全く気づいていないのです。
これは私たちへのメッセージなのです。
私たちこそ、シモンのように聖書を読んで、メッセージを聞いてしまうのです。
終わりに
私たちはイエス様を愛していると言いながら、人の目を気にします。
自分がクリスチャンであることを知られて恥ずかしい人はいますか?
また、他の人のことばかり気にする人もいます。
今日のメッセージは、あの人が当てはまるな。と他人のことばかりに適用し、自分の問題が語られていることに気づいていない。
また、マリアは、高価な香油を捧げました。
私たちは、イエス様を愛すると言いながら、すぐに計算します。
献金をきっちり計ったり、献金の割合を議論するのが好きな人がいます。
愛があれば、そんなの関係ないんです。
愛する人にプレゼントするときに、計算しますか?
彼女は人の目を気にせずに、イエス様に自分ができる最大限の尊敬と敬意を持って、行動しました。
私たちはどうでしょう?
型にはまった礼拝スタイル、自分が心地よい賛美スタイルや教会の雰囲気にこだわる人もいます。
礼拝中、手を上げたり、声を上げたり、地面に平伏したりしてもいいんです。
しかし、マリアはパフォーマンスじゃないんです。
涙を流しているんです。
では、どうやったら、シモンのようではなく、マリアのように、神を心から愛することが可能になるのでしょうか?
イエス様の言葉に注目しましょう。
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
聖書(ルカ7・47-48)
そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
自分がどれだけ罪深い人間かを悟ることです。
こんな弱い、汚い、情けない自分が、イエス様の十字架の死によってゆるされた。
こんな自分でも、イエス様は愛してくださっている。
この愛への応答、感謝が、イエス様の足元にひざまずいて、涙を流しながらの礼拝へと現れるのです。
ここに感動があるでしょうか?
頭ではなく、魂に、霊にまで落ちているでしょうか?
もし、ないなら、祈りましょう。
十字架を理解できない、罪を悟れないことをそのまま、受け入れ、祈りましょう。
神様、私は自分の罪が悟れていません。
あなたの十字架がどれほど偉大で尊いものか、頭では何となく知っているけど、心にまで来ません。
もっと、あなたに赦された感動を感じることができますように。
パフォーマンスではなく、宗教的活動ではなく、心から、涙を持ってあなたの前に、ひざまずく謙遜で純真なものになることができますように。
そのように祈りましょう。
真実な神様は、必ず、この素直で純朴な祈りに応えてくださいます。