いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
聖書(ピリピ4:4)
はじめに
みなさんはどんな時に、喜びを感じますか?
すごく嬉しいとか、喜びを感じるときを思い浮かべてみてください。
ネットを検索して調べてみましたが、みんな、だいたいこんな時に喜びを感じることが多いようです。
- 美味しいものを食べている時
- 目覚ましをかけずに好きなだけ寝られる時
- 好きな人と一緒に過ごしている時
- 人の役に立ち、周囲から感謝された時
- 褒められた時
- できなかったことができるようになった時
- 趣味や好きな事に没頭している時
- 新しい経験や価値観に触れて感動した時
皆さんが思い浮かべたことと一致していますか?
メッセージを準備する中で、ふと思ったことがありました。
それは、喜びと幸せって何が違うんだろう。
ネットによると、喜びは一時的。幸せは長く続くものらしいです。
これって結構大切な違いだと思いました。
なぜなら、先ほどのリストの喜びって、その原因がなくなったら、喜べなくなるからです。
- 美味しいものが食べられない時
- 仕事が忙しく満足して寝られない時
- 一緒に過ごす好きな人がいない時
- 人の役に立てず、周囲から感謝されない時
- 褒められない時
- できなかったことができるようにならない時
- 趣味や好きな事に没頭できない時
- 新しい経験や価値観に触れない時。触れても感動しない時
やはり、私たちの人生において、喜びを感じる瞬間はあるものの、それは長続きするわけではなく、喜びは一時的なものだということです。
しかし、聖書は、この一時的なはずの喜びを「いつも」と言って、まるでずっと喜ぶ続けることが可能であると言っているのです。
もし、私たちがいつも喜べたら、それは幸せな人生でしょう。
聖書が命じていることには、必ず実行できる秘訣があります。
今日は、「喜び」について聖書から学びます。
メッセージを通して、いつも喜び続ける聖書から学んでいきましょう。
主にある喜び
まず、今日のみことばをもう一度読んでみましょう。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
聖書(ピリピ4・4)
「いつも喜べ」→この聖書の箇所は今の時代ならパワハラ認定されるかもしれませんね。
だって、人生には喜べない出来事は付き物だし、強要されてもと思います。
それこそ、前回のメッセージの分かち合いである人が言ったように、無理矢理「感謝します!喜んでいます!」と言い続けることは宗教的に感じて嫌だなと。
しかし、大事なことは、聖書が「喜びなさい」と命令しているということなんです。
しかも、今日の箇所は、二度もです。
まるで「喜びなさい」と言われた私たちの反応を知っているかもようです。
「喜びなさい」
「いや、無理です。この状況でどうやって喜べばいいんですか?これはおかしな宗教ですか?」
「もう一度言います。喜びなさい」
この箇所だけかと思ったら、他の箇所にもあります。
いつも喜んでいなさい。
聖書(1テサロニケ5・16)
むしろ、イエス様は、迫害されても喜べと言っています。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
聖書(マタイ5・12)
しかも、いつだけではなく、大いに喜べと、程度まで言及しています。
いつも、めっちゃ喜べということです。
じゃあ、どうすれば、喜べるのか?その秘訣もまた、今日の短い箇所に書いています。
今日は二つのフレーズから見ていきます。
①神様から喜びはくる
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
聖書(ピリピ4・4)
「主にあって」
つまり、喜びとは神が上から与えてくださるものだということです。
単純に喜びなさいって言えば、美味しいもの食べたり、趣味を見つけたり、天職を見つけたり、お金を稼いだり、色々な手段が考えられます。
いつも、うまいもん食え。そうすれば、いつも喜べると。
違いますよね。
「主にあって」喜ぶことが大事なのです。
神から与えられる超自然的な喜びだけが、一時的ではなく、永続的に続くのです。
だって、よく考えてみたら、迫害されているときに、喜ぶことは不可能です。
鞭打たれ、牢獄に入れられ、喜んでいる人は、普通に考えて頭がおかしい人です。
しかし、頭がおかしくないのに、喜べる人が存在します。
それが、主の喜びに満たされた人です。
このような人が、世の光、世の塩になります。
世の中では考えられないことが、その人の人生で起きているからです。
この光は何か?この塩気はなんだ?
その時、人々は、この喜びが神から来る超自然的なもの(賜物)であることを知るのです。
ピリピの聖徒たちには、経済的にも霊的にも困難がありました。
ピリピの教会の中にもさまざまな問題がありました。
律法主義者たちの間違った教え、2人の女性の争い、教会の中に起こる意見の対立などです。
でも喜べるのです。
条件があります。
「主にあれば」です。
喜びは、御霊の実です。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
聖書(出エジプト5・22-23)
23 柔和、自制です。
つまり、聖霊に満たされることで、結ぶ神のわざです。
真の喜びは主からくるということなのです。
シンプルですが、大切なので覚えてください。
もう一つ、大事なポイントがあります。
②神様との交わりを喜びとする
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
聖書(ピリピ4・4)
この主にあってとは、主と交わることによってという意味もあるのです。
ダビデはこのように告白しました。
主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
聖書(詩篇37・4)
ダビデは10年もサウルに命を狙われ、友達からも裏切られ、祖国を追い出されました。
しかし、彼は神様ご自身を喜びとしました。
「神様ご自身を喜びとする」とは、神様との交わりの時間を楽しむということです。
神様に祈り、賛美し、神のみことばを聞くことです。
そのような喜びの中で、彼は絶望の10年間を自殺もせずに、信仰も捨てずに、耐え抜いたのです。
私たちはダビデはこの後にイスラエルの王になることを知っています。
でも、当時のダビデはそんなこと知りませんね。
もちろん、約束の油注ぎはサムエルからありました。
でも、状況を見ると、全く逆の現状です。
そんな中でも神を信じるのが信仰。
その中で、多くの詩が描かれました。
それは、神について、神様との交わりの日記です。
それが私たちの聖書で、詩篇と呼ばれる箇所です。
私たちは、毎日、神様との交わりの時間を喜びとしているでしょうか?
交わりの時間を持っているでしょうか?ではありません。
交わりの時間をもつクリスチャンは多いでしょう。
毎日、祈る。聖書を読む。
しかし、そこに「喜び」という感情はありますでしょうか?
皆さんが喜びを感じる、趣味をしたり、好きなことしたりしている時と同じか、それ以上の喜びは感じるでしょうか?
神ご自身を喜ぶことこそが、人生最大の喜びです。
神との交わりに喜びを感じない限り、私たちの喜びは一時的です。
あなたの人生の喜びと悲しみのアップダウンはなくなりません。
麻薬中毒者は喜びを一時的で強いドラッグに求めます。
しかし、ドラックがないと、孤独と虚しさがやってきます。
禁断症状は頭痛と吐き気、寒気が襲います。
同じように、お金、夢、仕事、この世がもたらす快楽からは、一時的な喜びしかないのです。
しかし、神との交わりを喜ぶ人は、いつも喜ぶことができます。
仕事をしても、家庭を持っても、何をしても、何をしなくても、神はいつもわたしたちと共にいるので、喜びの源泉はなくなりません。
一時的な喜びを求めるのではなく、喜びの源泉を求めましょう。
それが神であり、聖霊なのです。
聖霊に満たされましょう。そうすれば、喜びだけではなく、全ての良いものが神から流れてきます。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
聖書(ガラテヤ5・22-23)
23 柔和、自制です。
カトリックの星美学園小学校のサイトで、小林さんという小学生の言葉が載っていました。
本当の喜びとは何か?というテーマのようです。
本当の喜びとは、うわべの楽しみではなく、神さまと友達になることと、心の平和からこそ生まれるんだ。
もし、今日のメッセージを一言で言うなら、「神様と友達になる」とも言えますね。
一ヶ月前くらいに、神様から個人的に語られた箇所がありました。
それが先ほど読んだ、ダビデの詩篇です。
主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
聖書(詩篇37・4)
僕は、神様ご自身を求めているだろうか?それとも神様からの祝福を求めているだろうか?
究極の喜びは、最悪な状況でも、共にいる神様との交わりを喜ぶ人生。
大学生の聖霊体験。
あそこが自分にとって、最も魂が喜んだ瞬間。
あの時と比べて、今はどうだろうか?
他の何よりも、純粋に、神様を愛し、喜んでいるだろうか?
自分自身に問うた時、何かズレていると感じました。
じゃあ、僕は何をすべきか?皆さんはどうしますか?
主ご自身を喜べと言われても、いまいち「うーん、正直、喜べてないなあ」と感じる時。
祈るんです。
僕は祈りました。
今も祈っています。
主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
聖書(詩篇37・4)
私の心の願いは、「主を自らの喜びとすること」です。
この祈りを神様は、聞かれないはずないでしょう。
これが本当の幸せです。私は大学生の頃の話をいつまでもしたくないんです。
あの時の体験はよかった。聖霊の満たしとはこうだった。
「今、体験している」「今、私は神を喜んでいる」
証ししたい。そんな信仰者でありたい。
そんな人生でありたいと思うんです。
終わりに
聖書は「いつも喜びなさい」と二度も命じています。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
聖書(ピリピ4・4)
どんな時も喜ぶ秘訣は二つです。
- ①神様から喜びはくる
- ②神様との交わりを喜びとする
神との交わりが喜びになっていないと言う人。
大丈夫です。
祈りましょう。その喜びは神から来ます。
僕も求めています。
大丈夫です。聞かれます。
主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
聖書(詩篇37・4)
私たちの願いが、「主を自らの喜びとする」ことになりますように、お祈りします。