18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
聖書(マタイ1:18-25)
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
初めに
2018年の11月に韓国から、中国人が私の家に3ヶ月泊まりに来ました。
彼は私が韓国ソウルで牧会していた時、一番最初に洗礼を受けた人です。
その時、他の信徒と共同生活をしていたので、4人暮らしが始まりました。
彼ははリビングで寝ていました。懐かしいですね。
彼が札幌に来た理由がありました。
それは、どこへ行っても、どんな状況でも、揺るがない信仰を持つことだと聞きました。
一人になると過去のトラウマが蘇ったり、お前はもうダメだという声に将来が見えなくなったり、同じ失敗をしてしまう自分がいるのだそうです。
神様の御心を行いたい。
でも、できない自分がいる。
いつも、同じ状況に入ってしまうジレンマ。
「どうしたらいいでしょうか?」と彼から相談を受けました。
皆さんは、どう答えますか?
きっと、私を含めて、すべての人が抱えている悩みかもしれません。
未来に不安を持ってしまう信仰
今日の箇所に出てくるヨセフもまた、どうしていいかわからないジレンマを通った人でした。
ヨセフは、イエス・キリストの父親に当たる人でしたが、まだ関係を持つ前に、突然、婚約中のマリヤが妊娠したのです。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
聖書(マタイ1・18)
私たちは、イエス様が処女から生まれるというこの物語を知っているので、微笑ましく読むでしょう。
頭にはクリスマスの賛美が流れてきます。
しかし、これが現代の私たちの実生活の中で起きたとしたらどうでしょう?
婚約相手が、突然妊娠したら?
普通に考えれば、相手の浮気しかありません。
困惑?怒り?悲しみ?
しかも、当時のユダヤ人の婚約は、現在の婚約よりはるかに強い法的拘束力がありました。
まず、両家の同意と、公的な宣言によって婚約が成立し、一般的に花婿側は持参金の一部を支払います。
婚約期間は普通1年で、結婚と同等の法的効力を持ち、破棄するためには正式な離婚証書が必要でした。
では、ヨセフは、どのような反応をしたのでしょうか?
夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
聖書(マタイ1・19)
「正しい人」とは、旧約聖書の律法を守っている人のことを示しています。
当時、婚約した処女が姦淫した場合、律法に従って石で打ち殺すように定められていました(申22:20-21,23-24)。
しかし、もしこのことが真実であり、その娘に処女のしるしが見つからないなら、
聖書(申命記22・20-21)
その娘を父の家の入り口のところに連れ出し、町の人々は彼女に石を投げ、彼女を殺さなければならない。彼女が父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱となることをしたからである。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。
もし、ヨセフが律法を守ってマリヤの妊娠を公にしたのなら、マリヤは石で打ち殺されることになります。
一方、マリヤは、「浮気はしていない。天使が現れて、あなたは子を産むと言われたのです」と言っています。
皆さんがヨセフなら、どうしますか?
神に従えば、妻が死ぬことになる。
妻に従えば、律法を破ることになる。
そもそも、マリヤの言っていることは本当か?
今まで、旧約聖書に処女が妊娠するなんてことあったか?
聞いたことないぞ。
冷静になれ、ヨセフよ。
普通に考えたら、マリヤは他の人と関係を持ったのだろう。
それが、一方的に持たされた、つまり、事件が起きたのを隠しているか。
しかし、悩めるヨセフに、神様は手を差し伸べてくださいました。
彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
聖書(マタイ1・20)
私たちがジレンマに陥るとき、どうすることもできない状況に陥ったとき。
実際それは、神の御心を求め、葛藤するときですね。
葛藤している人は、本気で求めている人だと思います。
本気で御心を求める人に、主は必ず答えてくださるということです。
神の答えは、ヨセフに現れたということです。
「ダビデの子ヨセフ」と名前を呼び、「恐るな!」と言ってくださるのです。
神が現れたことで、ヨセフに状況は変わりましたか?
変わっていません。彼の現実は全く変わっていないのです。
しかし、変わったことがありました。
それは、状況を見る、彼の目が変わったのです。
神の言葉による信仰の目が開かれたのです。
マリヤは嘘はついていない。これは、神のみわざなのだ。
そのように信じることができるように、神はことばをくださったのです。
私たちの現状で、悩みが尽きない時があります。
その時は、状況を変えてとお願いすることも大事ですが、もっと大事なのは、その状況を神の視点で解釈する信仰の目が開かれることです。
神の視点で解釈できるために、神の言葉が与えられることです。
その時に、状況は変わらずも、私たちの心は平安に変わるのです。
神からの平安を受ける
ヨセフへの神の言葉の中で、特に重要な箇所は、23節です。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
聖書(マタイ1・23)
ヨセフは、もっと偉大なことに気づきました。
インマヌエル。
「神ご自身が私たちとともにおられる」という現実!
これこそが、全ての悩める人々に対する神様の答えです。
天国に行ったら、人は悩むでしょうか?
悩みません。なぜ?
イエス様がずっとともにおられるので、何を悩む必要があるのでしょう!
インマヌエル「神がともにおられる」。すべては神の御手にあるから大丈夫だということ。
そのことを見失ったとき、人は悩み、葛藤し、ジレンマに陥ります。
頭で理解していても、ココで信じ、体験していない場合が少なくないかもしれません。
悩む→神が現れる→言葉をくれる。
しかし、その言葉は「もう神がいるよ」という答えなのです。
悩んでいる時にも、「神はいたんだ」そのことに気付いたのです。
しかし、22節を見ると、これは単に、ヨセフとマリヤに神様が出会われたという、個人的なストーリーではありません。
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
聖書(マタイ1・22)
とあるように、これは、イスラエルという国に、メシヤが来られ、「神がともに住まわれる」というメシヤ預言の成就なのです。
23節の言葉は、イザヤ書に出てくるメシヤ預言です。
それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
聖書(イザヤ7・14)
当時のイスラエルという国こそ、神がともにおられることを見失った国だったとも言えます。
BC722にアッシリヤ、BC586にバビロンに滅ぼされ、その後も、ペルシャ、ローマ帝国と大国の支配を受けて来ました。
なぜ、そのようなことが起こったのか?
列王記を見ていれば、それが「主を離れ、偶像礼拝に陥った」と明確に書いています。
イエス様が生まれた時代も、祭司たちが堕落していたりという状況で、イスラエルの民はキリスト「メシヤ」を待望していました。
ヨセフに言った言葉の中に、イスラエルへの神の答えを見つけることができます。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
聖書(マタイ1・21)
名前=イエシュア=神は救い。
「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」それがメシヤということ。
その罪とは何でしょう?
その罪とは、神様から離れてしまっている状態です。
神が共におられるのに、神がいないと思っている状態。
神がいないことにも気にかけない状態。
神がいないように生活している状態です。
これが罪の本質です。
人間関係で最も重い罪は、殺人でしょう。
なぜなら、それはその人の存在を完全に無くすからです。
誰かに存在を無視されたり、軽く見られたり、馬鹿にされたら、嫌ですよね?
誰もが大事にされたい、見てもらいたいのです。
子供は特に顕著ですね。「見て見て~」てよく言います。
人間同士だと理解できるのに、私たちは神様に対しては、普通に無視します。
馬鹿にします。大事にしません。
だからこそ、祈りの本質は、会話なのです。
神をランプの精として呼び出す存在ではなく、神を敬い、神と関係を深めることが重要です。
2018年9月にイスラエルに行ったとき、イスラエルでは仮庵の祭りが始まっていました。
仮庵の祭りが始まる前には、大贖罪日と行って、イスラエルが国全体として悔い改める日があります。
仮庵の祭りの最後の日は、祭司達が祭壇に水を注ぎかける儀式があり、ホシャナ・ラバと呼ばれます。
ホシャナ・ラバとは、「今救って下さい」という意味です
その礼拝の最後に、5つの柳の枝を床にたたきつけます。これは、罪を消すことを表しています。
だからこそ、イスラエルの民は今も、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」メシヤを待っているのです。
しかし、メシヤは2000年前にすでに来られたのです。
問題は、ここです。
すでに来られたのです。
私たちがつまづく原因もここなのです。
神様がともにおられないのではないのです。
おられるのです!
神は私たちと共にいる
イエス様は、この仮庵の祭りの最後の日、ホシャナラバの日に、このように宣言されています。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
聖書(ヨハネ7・37-39)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
イエス様は、メシヤである私を信じるものには、聖霊がともにおられるということを述べられたのです。
まさに、インマヌエル「神がともに住まわれる」ということです。
皆さんは、イエスさまがキリストであると信じておられますか?
イエスさまが私たちたちの罪のために十字架にかかり、死なれ、3日後によみがえられたことを信じておられますか?
もし、信じておられるなら、「聖霊なる神さまは、今私たちとともにおられます」
問題は、それに気づいていないということです。
【一緒にいるのに一緒じゃない】
私が結婚したばっかりのこと、1つの大きな勘違いをしていました。
どこに行くにも、妻と一緒。
家の中も、食事も一緒。
私は、自分がとても良いことをしていると思っていました。
でも、妻はそうではなかったのです。
もっと会話をし、集中して二人だけの時間を過ごして欲しかったのです。
私は、妻と一緒に食事を食べていました。でも、私の顔は妻ではなく、テレビのお笑い番組を見ていました。
私は、妻と一緒にカフェに行っていました。でも、私はパソコンで作業をしていました。
一緒にいても、一緒じゃない時があることに気づきました。
私たちと神さまとの関係もそういう時があるかもしれません。
神さまはいつも、一緒にいるのに、私たちの方が神様以外のものに夢中になっていることが。
終わりに
中国人の彼が僕に相談した時に、彼も、僕も、一つだけ確かだったことがありました。
それは、彼の中にも、僕の中にも、その解決策がないということ。
神様の御心を行いたい。
でも、できない自分がいる。というジレンマ。
みなさん、もうすでに解決しているのです。
それは、神であられる方、ご自身が、人となってこの世にこられ、私たちのために十字架にかかり、復活し、すべての罪を赦されました。
もはや、神と私達との間の壁は壊され、イエス様は私たちと共に住まわれるのです。
今日悩みやジレンマを脇に置いて、私たちの中にともに住まわれる聖霊様に出会いましょう。
私たちに理解できないことや、葛藤があったとしても、神様には揺るがないご計画があることを信じましょう。