はじめに
クリスマスの語源は、ラテン語「クリストゥス・ミサ」の略
Christ(キリスト)+mas(ミサ)を意味します。
つまり、クリスマスは本来、キリストを礼拝する日なのです。
キリストを礼拝するとは、どういうことか?
まずは、キリストは誰か?を知っておく必要あります。
キリスト、つまりイエス・キリストは、超簡単に言えば「神であるイエス」という意味です。
言い換えれば、神が人となって、地上に来られたということです。
つまり、クリスマスとは、
「神が人となって来た」とはすぐに信じられないと思いますが、聖書にはそもそも人は神に似せられて造られたので、神が人になることは理解できるのです。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
聖書(創世記 1:27)
人は、神のかたちに似せて造られたので、神が人になって来ることはある意味、自然です。
逆に、人が神になる方が信じられません。
無理です。
しかし、面白いことに、世の中の人は、神のようになろうとしています。
まあ、とにかく、神が人として来られるということは、神には可能です。
では、次の疑問です。
なぜ、神が人となって、地上に来たのでしょうか?
今日は、これを知ってほしいと思います。
なぜ、神が人となって、地上に来たのか?
それは、人類の3つの要求に応えるためです。
①「神は誰か教えろ」という要求
世の中には神っぽい存在がたくさんいます。
神と名乗る人も歴史上たくさんいました。エジプトのファラオなどです。
今も自分がキリストだと名乗る偽キリストは韓国だけで100人いると言われています。
日本にも八百万の神がいると言われています。
で、思うわけです。
どれが本物なの?
そもそも、神はいないっしょと思う人がいますが、大自然を見た時、感動しますよね。パワーももらいます。
そのパワーや壮大さは、偶然できたのでしょうか?神が造った、あるいは神のような存在が造ったと考えるのが一番自然な気がします。
他にも物事を研究すると、その緻密さに、人間の力を超えた神に出逢います。
人体の神秘、科学、物理、心理学、人生の謎、哲学、音楽、芸術、テクノロジー。
コペルニクスからホーキングまで多くの科学者は、最終的に神の存在を認めたということがわかっています。
キリストが神であるという証拠は、聖書にあります。というか聖書そのものと言ってもいいでしょう。
創世記を書いたと言われるモーセは、今から3140年前に生きていたと言われているので、これを聖書が最初に書かれた時期とします。
その旧約聖書に、神が人となって地上に来られ、人類の罪のために死なれ、復活されるという預言が散りばめられています。
そして、新約聖書には、旧約聖書の預言の成就が、記述として書かれています。
次に、じゃあ、その聖書とやらは、改ざんされたりしてないか?誰かがでっちあげたものだろ?と思いますよね?
結論から言うと、聖書は、歴史上、最も信憑性が高い書物です。
まず、聖書の写本(手書きのコピー)は、めちゃくちゃ多いです。
旧約聖書の写本の数は、19世紀より前のもので、約17,000です。
有名な歴史的な書物で、大体300とか多くて1,000くらいです。
ちなみに、国語の教科書に載っている古事記と日本書紀の写本の数は、40と25程度です。
科学的な検証によると、改ざんされている可能性はほぼ0です。
なので、世の中で「私が神である」と言ってる、あるいは誰かに神として崇められている人物の中で、最も、言っていることに信憑性がないのが、イエス・キリストです。
その証拠は、信憑性の高い聖書が語っています。
②「神を見たら信じる」という要求
聖書がいかに信憑性が高かろうが、今の話だけで信じるまではいけないと言う人もいますよね。
つまり、神がいるなら、この目で見たい。見たら信じるという人も、この世にたくさんいるのです。
みなさんも、ここにキリストがいれば、簡単に信じれるのにと思いませんか?
この答えに神はすでに答えられたのです。
それが2000年前に、イスラエルという国で生まれた、イエスなのです。
しかし、皮肉なことに、神がいるなら見せてみろと言った人類の多くは、見ても信じませんでいした。
今度はこう言いました。「神が人になるわけない」
だから、はっきり言います。
多分、見ないと信じないという人は、見ても信じないと思います。
なので、見ないでも信じれる方法を探してください。
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
聖書(ヨハネ20:29)
③「神はわかってくれない」という要求
最後に、神はあまりにも遠くにいて、人間の生活に関心もなければ、俺の人生の苦しみや現実を理解できないだろ?という叫びです。
確かに、私たちの神のイメージは、「ぼんやりした光」とか「大きくて怖い裁判官」、「仙人のような爺さん」とか、現実味がないですね。
仙人のような神に、SNSが面倒だとか、とかリモートワークが大変で、とか言っても、理解できなさそうですね。
この叫びに、神はどうお答えたか?
そうです。
人間となって生まれたのです。
しかも0歳から、34歳まで、大工という職業までも経験されました。
普通なら、牧師とかになって布教するはずが、あえて、一般の職業を経験されました。
なぜでしょうか?
私たちが通る人生の全てを経験するためです。
キリストが色々な苦難を通った箇所の一つを紹介します。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。 人が顔を背けるほど蔑まれ、 私たちも彼を尊ばなかった。
聖書(イザヤ書 53:3)
キリストは、いじめも、病気も、悲しみも経験していました。
それは、私たちに同情するためです。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
聖書(ヘブル書4:15)
終わりに
- ①「神は誰か教えろ」という要求
- ②「神を見たら信じる」という要求
- ③「神はわかってくれない」という要求
この三つの要求に対する神の答えが、クリスマスなのです。
神が人となって来た三つの理由なのです。
ぜひ、みなさん、神が人となってくる理由、いや、神が人となってこなければいけなかったんだと考えてみてください。
逆に神が人となって来なければ、全く認知できなく、偽物を信じる可能性があり、同情もできない冷たくて怖いぼんやりした存在の神のイメージしかないのです。
神が人になったからこそ、神は私たち人間特有の苦しみを聞いてくれます。寄り添ってくれます。人生をどう生きるかも模範も学ぶことができるのです。
キリスト教は世界70億人のうち23億人が信じていると言われています。
そこには理由があることを知ってください。
聖書を読めば、神が人となって来られたことを頭だけではなく、心で、魂で体験することができるからです。
私たちは神に似せて造られたので、神が誰かを必ず認識できるのです。
もし、聖書に書いているキリストに少しでも興味が出たなという方は、ぜひ、来週の日曜も教会に来てください。
毎週、聖書からこのようなお話をしています。
また、もし、キリストについてもっと学びたいなという方、私に声をかけてください。
たった4回で聖書のキリストについて学べる、講座も用意しています。
以上が、クリスマスの聖書的な意味についてです。