8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
聖書(ピリピ 3:8-12)
9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
はじめに
みなさんは死ぬのが怖いですか?
平成26年厚生労働省の調査によると、大体半分の人が、「死ぬのがとてもこわい」と答えたようです。
怖くないって人は、おそらく、実感が湧かないのではないかと思います。
死んでみないと、その先はわからないからです。
ただ、一つだけ確かなことは、人生の最終地点は死です。
死なない人はいません。
今日の箇所を見ると、パウロはやばいことを言っています。
それは、「死にたい」という願望です。
え?自殺願望?
そうではありません。
なぜ、パウロは死を求めたのか?
それは、死の後には復活があるから。
クリスチャンにとって死は最終地点ではなく、通過点です。
死んだ後に「復活があるから」です。
そして、私たちの信仰生活には、この復活の力が不可欠だからです。
サンドウィッチマンなら「ちょっと、意味わかんないです」って言いそうですが、これから丁寧に説明していきます。
このことがわかると、人生の苦難の目的もわかるようになります。
パウロの3つの求め
今日の箇所を整理すると、パウロは3つのことを求めていることがわかります。
- ①キリストとその復活の力を体験する
- ②キリストの死と同じ状態になる
- ③キリストの苦しみを通る
①キリストとその復活の力を体験する
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
聖書(ピリピ 3:10)
「キリストとその復活の力を知り」の「知る」のギリシャ語はギノスコーと言って、単に知識的に知ることではなく、生活の中で人格的に知ることを意味します。
すなわち、これは「復活の力」を頭で知る段階ではなく、実際に体験する段階です。
皆さんは、復活の力を体験していますか?
復活の力とは、罪に支配されずに、新しい歩みをすることです。
この中に、復活の力を体験してないんじゃないか?と不安になった人がいると思います。
その人は、次のポイントが原因かもしれません。
②キリストの死と同じ状態になる
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
聖書(ピリピ 3:10)
しかし、復活の力を体験するには、絶対条件があります。
それは、まずあなたは死なないといけないということです。
復活の力を体験してない人は、死にきれていないのかもしれないということです。
ここでの死ぬとは、寿命で死ぬとか、命を落とすということではもちろんありません。
「古い罪人の自分が死んで顔を出さない」という意味です。
私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
聖書(ローマ6:6)
罪を犯してしまう性質が死ぬ。そして、罪に縛られる、コントロールされ、苦しむことがなくなる状態です。
そんな生活、いいですよね。
結局、私たちが一番苦しむのは、罪の悪習慣に縛られ、コントロールされることです。
クリスチャンであってもそうです。
悪習慣を続けてしまう。
人を傷つけたり、悪いことをしたり、言ったりししてしまう。
それにより、罪悪感を感じて苦しむ。
怠惰な自分。なんで自分はこんなにダメなのか。
自分を責めてしまう。罪責感に苦しめられる
人から傷つけられた心の傷がいつまで癒えなくて、怒りや悲しさで心が落ち込む。
絶望で死にたくなる。
人を愛せない。ゆるせない。
これらは、全部、あなたの外側の状況からくるものではありません。
最初は外側からの影響があったかもしれませんが、今あなたが苦しんでいるのは、あなたの内側の問題です。
あなたがそれを外に追い出せずに、心の中に入れているからです。
これらは全部、罪からくるものです。
天国では罪はありません。
天国で、罪悪感や罪責感を感じることはないでしょう。
傷つけられて苦しむこともないでしょう。
つまり、「罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる」状態が「死んでいる」状況です。
そして、この古いからだが死ぬためには、キリストの十字架が必要です。
私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
聖書(ローマ6:6)
2000年前にキリストが十字架につけられたとき、あなたはいましたか?
いません。
生まれてません。
しかし、キリストの十字架は、2000年後に生まれるあなたの「古い人」罪も一緒に、はりつけられたのです。
キリストの救いを受け取っている人は、このことを信仰によって、信じています。
あなたは、キリストの福音によれば、2000年前に「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」のです。
それを信じているので、あなたの罪は赦されているのです。
これが、10節の「キリストの死と同じ状態になり」という意味です。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
聖書(ピリピ 3:10)
しかし、(ここが重要です)キリストの死と同じ状態になるためには、
③キリストの苦しみを通る
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
聖書(ピリピ 3:10)
必要があるのです!やっとここまで来ました。
本当の順番は、こうです。
- ③キリストの苦しみを通る
- ②キリストの死と同じ状態になる
- ①キリストとその復活の力を体験する
だから、苦難は不可欠です。
苦難がないと古い自分は死なないからです。
なので、苦難の目的は死ぬことなのです。
だから、そもそも、神があなたに許した苦難に対しては、乗り越えようとか、逃げようとか、小細工は要りません。
ジタバタ言わずに、死ぬんです。
ドナドナです。
でも、私たちはバタバタするんですね。
痛いし、嫌だから。
そして、大切なことは、苦難によって、古い自分が死んでいく過程は、1日では無理です。
よく、なんで、クリスチャンになったのに、古い自分が死なないんですか?と質問される方がいます。
確かに、疑問ですよね。
なんで、クリスチャンになって、信仰によって古い自分が死んだはずなのに、古い自分が顔を出す。
「よろしくニキー」
しかし、ここで諦めてしまうクリスチャンが多いんです。
「どうせ、無理だろ」「まあ、折り合いつけていこう」
ひどい場合は、「自分は救われてなかったんだ」という土台まで揺らぐクリスチャンがいます。
この疑問に対する答えは、「死ぬには時間がかかる」ということです。
イエス様でさえ、十字架で6時間、苦しんで死にました。
でも、一般的な十字架系より、死ぬのが早かった。
なぜ?十字架にかかる前から鞭打たれ、苦しんでいたから。
でも、6時間。
長いですよね。苦しいです。
キリストでさえ6時間かかったなら、私たちはどうでしょう?
キリスト並にすごい苦難を通って、謙遜にさせられる人もたまにいます。
聖書のヨブとか。
普通は、じわじわ苦難を通って、死んでいくんです。
でも、苦しい時に、「十字架から降りてしまう誘惑」が私たちにあるんです。
降りちゃダメです。
降りたら、死にません。
苦難を通って十字架で死なれたイエス様が一番の模範ですが、パウロの歩みとかれの言葉に注目すると、彼の苦難を通して古い罪の自分に死んでいったことがわかります。
パウロは最初、自分を選びの器、使徒と呼びました。
しかし、晩年は自分は罪人の頭と言いました。
しかし、 主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
聖書(使徒 9:15)
ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
聖書(ガラテヤ2:8)
それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。
聖書(2テサロニケ 3:9)
私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
聖書(コロサイ 1:25)
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
聖書(エペソ 3:1)
すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
聖書(エペソ 3:8)
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
聖書(1テモテ 1:15)
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
聖書(2テモテ 4:6)
彼がどういう苦難を受けたかは他の箇所にたっぷり書いてます。
23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
聖書(2コリント 11:23-28)
24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
パウロの手紙は新約聖書の半分もありますが、それは、彼が正論を言っているからではなく、こいういう苦難を通して、キリストの福音、つまり、死と復活を頭ではなく、口先の言葉だけではなく、体験したから、彼の言葉には説得力があるのです。
しかし、一つ注意したいことが、「霊的自殺の危険性」です。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
聖書(ピリピ 3:10)
「キリストの苦難」です。
キリストがあなたに与える苦難でなければ、間違って自殺します。
自分で頑張って死のうとしなくて大丈夫です。
キリストと共に、十字架にかかる苦しみ。
それは、キリストがあなたに与える苦難の試練があります。
終わりに
パウロは3つのことを求めました。
- ①キリストとその復活の力を体験する
- ②キリストの死と同じ状態になる
- ③キリストの苦しみを通る
本当の順番は、こうです。
- ③キリストの苦しみを通る
- ②キリストの死と同じ状態になる
- ①キリストとその復活の力を体験する
今、苦しみを通っている人は、古い自分が死ぬプロセスを通っていることを知ってください。
大丈夫です。
あなたが通っている苦しみには意味があるんです。神の最善の目的があるんです。