66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
聖書(ヨハネ6:66-69)
67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
はじめに
2011年にアメリカでNot a fanという本が流行りました。
どのようなことが書かれているかというと、
キリスト者であることはキリストに従うことだ。
映画スター、歌手、スポーツ選手など、有名人の回りに人々が群がるような、キリストのファンになることでない。
ということです。
この本がクリスチャンの間で、ベストセラーになるということは、イエス様には関心があるファンであっても、イエス様に従う弟子としては生きていないかったクリスチャンが多かったからではないでしょうか?
ある牧師は、クリスチャンの中にも危険な考えがあるといいます。
それは、「キリストの弟子にならなくてもクリスチャンとして生きて行ける」という間違った考えです。
私たちはどうでしょうか?
「私たちはイエス様のファンでしょうか?それとも本物の弟子でしょうか?」
これから三回シリーズで、イエス様の弟子についてのメッセージをしていきます。
今日は、ヨハネの福音書から、「弟子の条件」というタイトルで、共にみことばの前に出ていきましょう。
ファンだった弟子たち
今日の箇所では、弟子たちの多くがイエス様から離れたとあります。
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」
聖書(ヨハネ6:66)
なぜでしょうか?
それは、イエス様の言っていることが理解できなかったからです。
今回の箇所の直前で、イエス様は弟子たちに、こう言われました。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
聖書(ヨハネ6:54)
皆さんは、この意味が理解できますか?
イエス様の肉を食べる?イエス様の血を飲む?
イエス様の肉を食べて、イエス様の血を飲んだ人は、永遠のいのちを持っている?
それを聞いた弟子たちの反応はどのような反応だったでしょう?
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
聖書(ヨハネ6:60)
弟子たちの「多くのもの」は、これを聞いて理解できず、失望し、去って行ったのです。
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」
聖書(ヨハネ6:66)
この反応から、イエス様に弟子として付き従っていた人の多くが、実は弟子ではない、形だけの弟子であることが明らかになったのです。
私たちがここから学びたいことは、イエス様のみことばを聞く人には、2種類の人がいるということです。
そして、考えたいことは、あなたはどっちなのか?ということです。
①神様のみことばを、自分自身に合わせようとする人
⇒自分主体当時、自称弟子たちは、イエス様を喜んでいました、
それは、自分たちの願う王に祭り上げようとしていたからです。
しかし、イエス様がどうやら、自分たちの理想のメシア像とは違うようだ思った瞬間、離れていきました。
イエス様とたくさん一緒に過ごし、5,000人の人のお腹を満たす奇跡などを見てきたはずの弟子たちが、離れていったのは、自分たちの考えにみことばを当てはめようとしたからです。
では、もう一つの反応はどうでしょう?
②自分自身を、神様のみことばに合わせようとする人
⇒神様主体これが本来の弟子の姿です。
このように聞くと、至極当たり前に聞こえます。
しかし、罪人である私たちは、とても簡単に、いや、意識的、無意識関係なく、神様を自分自身に合わせて理解しようとし、神様を思い通りに従わせようとするのです。
私たちの祈りを例にとってみましょう。
「神様、ああしてください。こうしてください」そのような祈りが多くないでしょうか?
願いが聞き入れなかったら、「神様!なんでですか!なぜ、答えてくれないのですか!」と怒ったり、「神様は私には答えてくれないんだ」と自己憐憫になったりします。
もちろん、神様になんでも子供のように願うことは良いことです。
子供のような信仰は大事です。
しかし、子供のような純粋な心を持ったまま、大人の信仰者として成長することは可能です。
大人の信仰者とは、神様の御心のために、「私ができることは何でしょうか?」と自分自身を神様に合わせていく人のことです。
このような姿勢も、かけてはいけないのです。
イエス様が十字架にかかる前にゲッセマネの園で祈られた祈りを模範にしたいと思います。
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
聖書(マタイ26:39)
願いは話す。しかし、最終的には、主よあなたの御心通り、私の身に起きますように。
これが子供のように純粋であり、大人の成熟さを持った信仰者のモデルです。
本当の弟子だった12人
それでは、イエス様の近くにいた12弟子はどのように反応したのかをみて行きましょう。
67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
ペテロは答えました。
68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
おそらく、ペテロは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っている」というイエス様の言葉を完全に理解できなかったでしょう。
しかし、彼は、イエス様は神であり、イエス様のおっしゃることは真実であるということを認め、口で告白しました。
これができているなら、私たちはキリストの弟子です。
弟子であっても、イエス様を裏切ってしまいます。イエス様よりも自分や他のものも愛してしまいます。
しかし、それは弟子として、ついていく過程で、訓練される部分です。
イエス様の言葉、聖書の言葉が理解できなくても、自分ができていなくても、それでもまず「信じます」と言う人が弟子なのです。
つまり、本物の弟子とは、
①神様のみことばを、自分自身に合わせようとする人。
ではなく、
②自分自身を、神様のみことばに合わせようとする人。
なのです。
皆さんはどちらでしょうか?
どちらになりたいでしょうか?
もちろん、「②自分自身を、神様のみことばに合わせようとする人」になりたいはずです。
なぜなら、「①神様のみことばを、自分自身に合わせようとする人」は自己中心であって、神を自分の欲のためにコントロールしようとする偶像礼拝であることがわかるからです。
聖書を読んだことのない人であっても、なんとなくこれは罪であるとわかるはずです。
しかし、聖書によると、私たちは罪人です。
キリストの十字架の血潮によって罪が赦されました。
しかし、罪の性質は残っています。
日々、聖霊の力できよめられていくでしょう。でも、罪の性質は私たちの肉にこびりついているのです。
なので、無意識に、いや意識的にであっても、弟子になりたいと思っていても、私たちは「①神様のみことばを、自分自身に合わせようとする人」になってしまうのです。
先ほどの箇所で、ペテロはイエス様に答えました。
68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。 」
素晴らしい信仰の告白でした。
まさに、弟子の中の弟子に見えるでしょう。
しかし、ペテロはイエス様が十字架にかけられる時に、イエス様を裏切りました。
ペテロは3度も知らないと行って、イエス様から離れました。
これは、ペテロの信仰がへぼくて、私たちは気をつけましょうということではありません。
私たちはペテロなのです。
試練や恐れ、不安の中で、私たちは自分を守るために、イエス様を知らないと言ってしまう罪深さを根底に持っているのです。
今日のメッセージを聞いて、自分は弟子じゃないな。
弟子になんかなれないなと思った方。
安心してください。
かっこよくイエス様のことばに従おうと決心したのに、イエス様を裏切ったペテロであっても、イエス様の弟子です。
十字架にかかり、復活されたイエス様は、裏切ったペテロに会われました。
「もうお前は弟子じゃない」とは言われませんでした。
むしろ、聖書には、ペテロを含む裏切った弟子たちを「弟子」と記しています。
イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。
聖書(ヨハネ 21:14)
イエス様は、自分を裏切ったペテロに「牧会者」としての使命を与えるのです。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
聖書(ヨハネ 21:15)
ペテロ自身もその後に書いた書簡の初めに、自分はイエスの使徒、つまり、弟子だと堂々と告白しているのです。
イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
聖書(1ペテロ 1:1)
つまり、何が言いたいのでしょうか?
弟子とは、「②自分自身を、神様のみことばに合わせようとする人」です。
その過程の中で、合わせようとするけど、自己中心や不信仰で、神を自分に合わせようとしたり、裏切ってしまったり、もう神様とかいいやと投げ出したくなったりすることもあるということです。
神の御言葉に完全に「合わせられる」人はイエス様しかいません。
弟子であってもイエス様から一時的に離れることはあるのです。
しかし、大切なことは「戻って来ればいい」ということです。
聖書で、それを「悔い改め」といいます。
悔い改めは、方向転換です。
あれ?イエス様のことばや御心とは違う方向に行っているなと感じたら、イエス様の方向に方向転換すればいいんです。
今、信仰が薄れている人。戻りましょう。
自分は罪人だと自覚している人。戻りましょう。
イエス様はいつも待っておられます。
放蕩息子のお父さんのように、外に出て迎えて来れます。
なぜか?
あなたと神様の関係は変わってないからです。
親子は、離れても親子です。
終わりに
本物の弟子とは、
①神様のみことばを、自分自身に合わせようとする人。
ではなく、
②自分自身を、神様のみことばに合わせようとする人。
なのです。
弟子には条件があります。
それは、師であるイエス様のみことばを信頼し、イエス様がおっしゃったことに喜んで従うことです。
今、私たちは、どこに焦点を置いているでしょうか?
自分自身にイエス様を合わせようとしていないでしょうか?
また、その過程で、ずれてしまうことは大いにあるでしょう。
でも、イエス様に戻ればいいんです。イエス様に向かえばいいんです。
何度でも、やり直しができます。
私たちが切ろうと思っても、イエス様はいつでも待って来れているからです。
その愛に応えて、イエス様に自分自身を従わせていく、弟子になることができるように、主の御名によってお祈りします。