24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。
聖書(マタイ10:24-33)
25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。
27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
はじめに
社会で生活している以上、人の目を気にしてしまうことってありますよね。
ネットに人の目を気にしてしまう5つの原因が載っていました。
- 常に他人の評価が気になってしまう
- 自己肯定感が低く、自信がない
- 他人から嫌われることがとにかく怖い
- 人に怒られることを恐れている
- 常に周りから見られていると思っている
これらの共通点は、全て「他人軸」だということです。
他人の言動が軸になって、自分の行動を決めているので、結果として振り回されることになります。
では、「自分軸」を持てば解決するのでしょうか?
そうでもありません。
なんでも「自分軸」で行動すれば、他人の考えや行動は自分には関係ないということになり、結局、人が離れていくことになります。
「自分らしさ」をもちつつも、「周りにの人から好かれる」人は、自分に対する自己肯定感と、他人への優しさの両方を持っています。
その両方を持つ秘訣は、「神軸」を持つことです。
聖書に書いている「神様の軸」です。
神様の軸には、自分は神のかたちに似せて造られ、創造主が命を捧げるほどに愛してくれているという絶対的な自己肯定感があります。
また、他人も同じように神のかたちであり、愛することが人生の幸せのもといであることがわかるので、他人に優しくなれるのです。
今日は、私たちが、社会の中で世の光、地の塩となるとき、神の国と神の義をまず第一に求めるとき、神と人を愛するとき。
これらは同じことを言っているので、あえて、あなたにフィットするものが一つでもあるようにと、いろんな表現を使ってます。
端的に言えば、福音を宣べ伝えるとき、「人を恐れない態度」を持つために、神であるイエス様が示した軸です。
これが、弟子が持つべき軸「弟子の態度」です。
弟子が持つべき4つの態度
なぜ、聖書の価値観に生きて、福音を宣べ伝えるとき、人を恐れる必要はないのか?
今日の箇所には、4つの理由が書かれています。
①迫害を受けるのは当然だから
24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。
聖書(マタイ10:24-25)
25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
弟子やしもべが師や主人のようになれたらすごいことなので、イエス様が人々に非難されているように弟子たちも非難されるなら、それは光栄なことだということです。
プロ野球の名選手であり、名監督だった野村克也監督の名言を知っていますか?
彼がどうやって、選手を育てていたかというと、
三流は無視し、
二流は称賛し、
一流は批難する。
らしいです。
つまり、批判される人が、一流だということです。
確かに、私たちも、興味のない人は無視しますよね。
そこそこだったら、あまり考えずに褒めることもあります。
例えば、僕たちは、友達じゃない人は無視しています。
外を歩いているときに、たくさんの人とすれ違います。
いちいち挨拶してますか?
しませんよね。悪い意味ではなく、無視しているのです。
でも、まあまあ仲の良い、友達なら笑顔で挨拶するでしょう。
でも、親友だったら?
時に、厳しいことも言うはずです。
関心があるからです。
YouTubeをやっててもそう思います。
批判のコメントがくることは、関心を持たれている証拠です。
どうでもいいチャンネルは、コメント自体がありません。そもそも視聴回数が少ないでしょう。
イエス様が批判されていたのは、イエス様の教えが間違っていたからではありません。
まず、人々が批判したくなるほど、影響力があったのです。
それだけ、多くの人と関わっていたのです。
むしろ、イエス様の教えを聞いた人が、それを聞きたくなかった、自分の間違いを指摘されているように感じたから、自己防衛的にイエス様を批判したのです。
よく、別に批判しているわけじゃないのに「その言い方ないだろ」と反応する人いますよね?
確かに言い方が良くない人はいます。
ただ、言われたことに心当たりがある場合、カチンと腹が立つことがあるのです。
イエス様はなんと言われましたか?
25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
聖書(マタイ10:25)
「ベルゼブル」は、カナン人の神「バアル・ゼブブ」に由来していて、悪霊のかしらを意味します。
サタンと言い換えることもできるでしょう。
神の子であるイエス様をサタン呼ばわりするなんて、あり得ませんよね。
しかも、言っているのは、旧約聖書の教師であるパリサイ人です。
イエス様がサタンと呼ばれるなら、私たちもサタンと呼ばれることはあり得ると言うことです。
僕は言われたくありませんが…
でも、イエス様の言葉によれば、言われるくらいの方が光栄だと言うことになります。
ここで注意点があります。
イエス様を信じる信仰のゆえに迫害された場合のことです。
普通に生活していて迫害された!っていうのは、ただのいじめや、あなたの言動の問題かもしれません。
あくまで、神の国と神の義を第一に求めて生活した場合に起こる衝突や問題です。
なぜ、人を恐れる必要はないのか?
2つ目の理由は、
②福音を隠しておくことができないから
26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。
聖書(マタイ10:26-27)
27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
迫害者を恐れて語らないでいるとしても、福音を隠しておくことは出来ません。
あなたが隠しても、必ず、福音は伝わっていきます。
光は眩しいから、隠れないからです。
塩はしょっぱいので、わかるからです。
あとは、キリストの再臨の時に、福音が真実であることが明らかになります。
なので、それを信じて、恐れるなと言うことです。
屋上で言い広めなさいとは、当時のイスラエルで、公に人々に知らせを告げるときに、町の管理人がしていたことです。
ある学者は次のように言いました。
「地方管理人は、人々が仕事から帰ってきた夕方の時刻を利用して、公布を告げた。家の近くの一番高い屋根に上り、大きな声で伝えた」
イエス様は、福音を伝えるときは、それくらい堂々としなさいと言っているのです。
今の時代では、YouTubeで発信したり、ブログを書いたり、SNSを使ったりみたいなことも屋上に近いですね。
本当に価値のある教えなら、隠す必要はないはずです。
なぜ、人を恐れる必要はないのか?
3つ目の理由は、
③人は魂を殺せないから
28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
聖書(マタイ10:28)
どんな人でも権力と暴力によって、人を殺すことはできるでしょう。
でも、その人の魂を殺すことのできる人はいません。
例えば、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」と言う本です。
この本でナチス強制収容所の体験を綴ったヴィクトール・フランクルは、同じく強制収容所に放り込まれた人々が毎日バタバタ死んでいく環境でも、決して挫けず諦めず、生きることを希望とし生き延びたのです。
彼は醜く生き延びたのではなく、清らかな心と高貴な態度と自由な心情を持って生きました。
僕らがフランクルのようにできるかは別として、どんな劣悪な環境であっても、心に希望を持ち続けることは可能だと言うことです。
クリスチャンは、死後の世界があることを信じている人たちです。
そして、大切なのは、神が私たちの魂がどこに向かうかを知っておられるのです。
私たちの信じる神は、「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる」神なんです。
なので、本来は、人ではなく、神を恐れることが理に適っているのです
なぜ、人を恐れる必要はないのか?
4つ目の理由は、
④神は私たちを愛しておられるから
29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
聖書(マタイ10:29)
当時「雀」は貧しい者たちのための安価な食べ物でした。
今でいえば神様は、スーパーで売られているもも肉のニワトリ一羽のいのちでさえ、神の許し無くしては死なないと言ったところです。
そして、神様は私たちの髪の毛を数えておられるお方です。
30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
聖書(マタイ10:30)
あなたは夫を愛していますか?
でも、髪の毛を数えるくらい愛している人はいないでしょう。
夫は数えられたくないかもしれません。
毎日、数をメモして、棒グラフにしていると、減少しているのがわかるから。
つまり、あなたの髪の毛を数えているくらい関心を持ち、雀の命を守られる以上に、あなたの命、生活、人生に関心を持っておられるお方なのです。
31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
聖書(マタイ10:31)
当たり前ですが、あなたは雀よりも、フライドチキンになるニワトリよりも価値があるからです。
イエス様は、非常に論理的に話しているの、わかりますか?
ゲヘナにぶち込む権威のある神が、あなたを愛しているのです。
あなたは、誰を恐れますか?
のび太は、ジャイアンにいじめられても、ドラえもんに泣きつく。
ドラえもんがバックにいて、なんとかしてくれるのはから。
私たちのバックには神様がいるんです。
なぜ、聖書の価値観に生きて、福音を宣べ伝えるとき、人を恐れる必要はないのか?
今日の箇所には、4つの理由が書かれていることを見てきました。
- ①迫害を受けるのは当然だから
→批判は当然。批判されているか? - ②福音を隠しておくことができないから
→福音は価値がある。福音を伝えているか? - ③人は魂を殺せないから
→相手は同じ人間。信仰の確信があるか? - ④神は私たちを愛しておられるから
→神はあなたを守る。神に信頼しているか?
これら四つの理由により、私たちは、誰も恐れる理由がないのです。
ちょっと、僕の話をさせてください。
ゆうき牧師はできてるの?ってことですが、最初は人を恐れまくりでした。
友達が家に来たら聖書を隠すし、日曜は教会に行くとは言わず微妙な嘘をついていました。
大学の時に聖霊体験をして「クリスチャンであること」を初めて親友に伝えたら、意外と反応がよく、10人以上も「教会に」誘うようになりました。
この時点で僕は人を恐れなくなったでしょうか?
NO。恐れています。
「クリスチャンであること」を伝え、「教会に」誘うことはしているけど、「批判はされず、福音も伝えていない」のです
これがポイントです。
僕にとっての転機は、教会を開拓したことです。
その時、一番きつかったのはクリスチャンからの批判、噂話、中傷でした。
YouTubeを始めるようになって、批判コメントが来るようになりました。
最初はたった一つの低評価でも、気になって落ち込みました。
でも、そのうち慣れてきました。
神様はこのようにして、温室育ちの豆腐メンタル牧師を、強くしていったのです。
続けるうちに、救われる人が増えていきます。
そのうち、神のためにやっている軸が自然とできてきたという流れです。
ポイントは
- ①迫害を受けるのは当然だから
→批判は当然。批判されているか? - ②福音を隠しておくことができないから
→福音は価値がある。福音を伝えているか? - ③人は魂を殺せないから
→相手は同じ人間。信仰の確信があるか? - ④神は私たちを愛しておられるから
→神はあなたを守る。神に信頼しているか?
これらの基本をしっかり通っているかです。
「クリスチャンであること」を伝え、「教会に」誘うことはしているけど、「批判はされず、福音も伝えていない」なら、弟子の態度が備わっていないということなんです。
厳しいですが、僕が身をもって、今日のイエス様の言葉を体験しました。
ここを通ると、人が救われていきます。
福音が語れる、福音が広がっていくからです!
終わりに
なぜ、聖書の価値観に生きて、福音を宣べ伝えるとき、人を恐れる必要はないのか?
今日の箇所には、4つの理由が書かれていることを見てきました。
- ①迫害を受けるのは当然だから
→批判は当然。批判されているか? - ②福音を隠しておくことができないから
→福音は価値がある。福音を伝えているか? - ③人は魂を殺せないから
→相手は同じ人間。信仰の確信があるか? - ④神は私たちを愛しておられるから
→神はあなたを守る。神に信頼しているか?
これら四つの理由により、私たちは、誰も恐れる理由がないのです。
今日、今一度考えましょう。あなたの人生の軸はどこですか?
他人軸ですか?自分軸ですか?
正しいのは、神軸です。
これが、弟子が持つべき軸「弟子の態度」です。
神様の軸がしっかりあれば、みことばの通りに生きていけば、御言葉の通りになります。
日本のリバイバルを本気で望むなら、今日のみことばを実行しましょう。
- ①迫害を受けるのは当然だから→批判は当然。批判される
- ②福音を隠しておくことができないから→福音は価値がある。福音を伝える
- ③人は魂を殺せないから→相手は同じ人間。信仰の確信を持つ
- ④神は私たちを愛しておられるから→神はあなたを守る。神に信頼する