弟子の土台「神に妬まれていますか?」聖書(マタイ10:32-33)

20220814
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32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

聖書(マタイ10:32-33)

はじめに

前回の記事は、「人を恐れるな」というテーマでしたね。
人を恐れない理由を4つ説明しました。

今日の箇所は、それでも、私たちが人を恐れて、神を拒否する人に対する、イエス様の厳しい言葉です。

32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

聖書(マタイ10:32-33)

イエス様、厳しい~と言いますか?

なんか、こんなこと言われたら、自信なくなりますよね。

僕も、高校までは、信仰を隠していました。
皆さんの中には、今でも自分がクリスチャンであることを言えない人もいると思います。

じゃあ、そんな人は、天に召され、イエス様と会ったときに、「あなたを知らない」と言われちゃうんでしょうか?

皆さんはどう思いますか?

何となく、流石に言われなさそうですが、根拠はありますか?

聖書には、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」と書いていますよ。

このイエス様の言葉の真意を読み解く鍵は、「愛の関係」です。
これから説明するので、覚えておいてください。

愛からくる妬み

まず、この厳しい言葉は、イエス様があなたを脅迫したり、責めたり、取引したりするために言っているのではありません。

あなたを愛しているから、言っているんです。

これは「妬み」です。

妬み?

え?
神様って妬むの?と感じますよね。

実は聖書に、神は妬むって書いているの知っていましたか?

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。

聖書(出エジプト20:5)

妬みとは、ネットの辞書によると、嫉妬とも呼ばれ、相手が自分より優れた良い状態にあることをうらやましいと感じ、悔しく思う気持ちのことです。

え、神様は私たちを羨ましく思うってこと?

と思いますが、これは翻訳された日本語がよくありません。

英語の聖書は“jealous”と訳されています。

これは英語で考えたほうがわかりやすいので、英語の勉強だと思って聞いてください。

日本語で「妬み」というと、英語では“jealous”と“envy”という2つの単語があります。

“jealous”は自分が持っているものを失うかもしれない、誰かに奪われるかもしれないという恐怖に対して使う言葉です。
“envy”は他人が持っているものを欲しがる時に使う言葉です。

もう一度言います。
英語の聖書ではこの妬みは“jealous”と訳されています。

「自分が持っているものを失うかもしれない、誰かに奪われるかもしれないという恐怖」のことです。

つまり、神様が私たち人間を羨ましいと思う意味ではありません。

あなたという愛する存在が、他に行ってしまう。誰かに奪われることを嫌がる気持ちです。

裏を返せば、それだけ、神様は、あなたを強烈に愛しているということになります。

この神様の「妬み」は夫婦関係、あるいは親子関係を考えると、よく分かります。

例えば、他の男性があなたの妻に言い寄り、彼女を誘惑しようとしているのを見たとき、その夫の心はどうなるでしょうか?
そのときに知らん顔して、「俺はねたまないよ」と言うのは、おかしいのです。

なぜかと言うと、夫は妻を愛しているからです。
また、神様から与えられた夫婦関係を破壊しようとする力が働けば、それを排除しようとするのはごく自然な行為だからです。

親子関係も同じことです。子どもが誘拐されそうになっているときに、「俺は構わないよ」という親はおかしいのです。
親なら、自分の子どもを命がけで取り返そうとします。

神様が「ねたむ神だ」と言われる場合、この愛のゆえの意味です。

主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。

聖書(ヨエル 2:18)

よく聖書に出てくる偶像礼拝ってありますよね?
なぜ、偶像礼拝はダメなのか?

これも、今日のメッセージで謎が解けましたよね?

神様が妬むからです。

あなたは、神様よりも、他の神々に心奪われたり、お金や生活の関心ごとに心が奪われたりしたら、悲しいのです。

それらを作って、あなたを祝福したい神さまなのに、創造主である神様が忘れられるのは辛いのです。

皆さんも、好きな人、子供でもいいでしょう。
お金ちょうだいと言われて、あげたら喜んだ。

それからずっとお金お金と言われて、断ったら怒られたり、人が離れていった。

そうなったら、そこに愛は感じないでしょう。

僕を、私を愛してよって悲しくなるでしょう。

偶像礼拝を筆頭に、この世の物事を、倫理的に、正しい、悪いで考えると本質が見えなくなります。
それが、善悪の知識の木の実を食べた人間の不幸です。

冒頭で、このイエス様の言葉の真意を読み解く鍵は、「愛の関係」ですといったのを覚えていますか?

本来は、全て愛の関係で考える必要があるのです。

イエス様のことばの根底「愛の関係」

なぜ、罪がダメなのか?
愛の関係を壊すからです。

十戒の最初の4つは?神に対する罪。
神様が悲しむ罪。

残り6つは?隣びとに対する罪。
周りの人が悲しむ罪。もちろん、みんなと仲良くなってほしい神様も悲しむ。

つまり、愛の関係という観点から罪をみる必要があるのです。

だから、悔い改めが大事。

「神様を悲しませてごめんなさい」

こんなに愛してくれているのに、気づかないで「神様を悲しませてごめんなさい」

悔い改めは、天国に行くおまじないではなく、神様との関係の修復「ごめんね。いいよ」ってことなんです。

今日の箇所で、イエス様は、「あなたが人々の前で認めるなら、認める。認めないなら、認めない」と言いました。

32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

聖書(マタイ10:32-33)

なぜでしょうか?

愛の関係とは、一方通行ではなく、お互い関係だからです。

神様が愛しているのに、あなたがそれを拒否するなら、神様だって拒否するでしょう。

神に拒否権があるのか?あるでしょう。
あなたにあって、なぜ、神様に拒否権はないのでしょうか。

しかし、大事なことは、神様はあなたを認めないということを強調したいのではありません。

まず、あなたを無条件で愛しているのです。
まず、あなたを妬むほど愛し、あなたを見つめ、あなたを追いかけているのが愛に満ちた父なる神なのです。

まさに放蕩息子を待っている父親の姿です。

つまり、神様の愛がわかれば、自然と答えたくなるのです。
「認めない」なんて選択肢が消えるのです。

今日、私たちが語られていることはまさに、この妬む「愛」についてなんです。

この妬む「愛」が神様にあることはわかりました。

でも、大事なことは、この妬む「愛」があなたに、あるかどうか。

つまり、妬むほど、神様を「愛」しているか?と言うことがポイントなんです。

前回のメッセージで、なぜ、聖書の価値観に生きて、福音を宣べ伝えるとき、人を恐れる必要はないのか?
4つの理由が書かれていることを見ました。

  • ①迫害を受けるのは当然だから
  • ②福音を隠しておくことができないから
  • ③人は魂を殺せないから
  • ④神は私たちを愛しておられるから

これらの理由は、イエス様が提示された論理的な説明です。

でも、神を愛していれば、そもそも人を恐れないんです。

人を恐れていると言うことは、つまり神様をそこまで愛していないと言うことなんです。

シンプルですね!

例えば、結婚式ではみんなの前で誓約をします。愛していることをみんなの前で宣言するんです。
その時に、恥ずかしいから、隠しておきたいから、列席者の中に自分のことが好きな異性がいるので、その子を悲しませたくないから、誓約はやめます。
なんてことが許されるでしょうか?

それは、結婚相手を一番に愛してないということなんです。

みなさん、愛の大きさってどうやってわかると思いますか?

それは比較によってです。優先順位です。

例えば、僕が妻と、他の女性、どっちを愛していますか?
と聞かれて、僕は差別が嫌いなので、みんな愛してますって言ったら、妻は怒るでしょうね。

「他の女性よりも、妻をもっと愛してます」
この言葉が普通でしょう。

神様との関係もそうです。

神様を愛していれば、他の人のことよりも、神さまのことを大事にします。

神様を愛しているので、人前で神を知らないなんて言ったら?
妻を愛しているのに、妻のことは知りませんなんて言えないでしょう。

じゃあ、聞きます。
「あなたは、どんなことがあっても、人前でイエス様を否定しませんか?」

大丈夫です。僕もです。

そして、イエス様の弟子たち皆そうでした。

ペテロは人を恐れず、イエス様を愛していることを宣言しました。
でも、ご存知の通り、人が怖くて3回も「知らない」と裏切りました。

でも、復活したイエス様に出会ったペテロは、このあと、教会の指導者になります。
聖霊に満たされたペテロは、イエス様のために命を捨てることができるようになりました。

聖書には書いていないので、あくまでも伝承ですが、ペテロは晩年、皇帝ネロに捕らえられ、逆さ磔になって殉教したと言います。
エウセビオスの『教会史』によれば、ペテロは自ら望んで逆さ十字架の受難を望んだというのです。

イエス様を三度裏切ったペテロが、イエス様と同じ十字架、しかも、イエス様と同じじゃおこがましいと、逆さを望んだと言うこと。
これは、普通の状態じゃ無理です。

ペテロは精神が逝っちゃってたのか?
違います。

裏切っても、愛してくれるイエス様の「海のように深い愛」を体験したからです。

皆さん、ポイントはここにあります。

イエスさまの愛を何度も体験することです。
自分の罪に落胆し、イエス様を裏切ってしまい、申し訳ないと思っても、イエス様の元に戻るなら、イエス様はあなたを見捨てず、見放しません。

これは体験でしか分かりません。ペテロのような体験を私たちみんなする必要があるんです。

これが、信仰の基本である十字架なんです。

自分の罪のために、イエス様がいのちをかけて死んでくれた!
いのちがけの愛こそが、妬むほどの愛。

罪の誘惑に負けてしまう、悪霊に影響される弱い私たちを、悪霊の支配やこの世の誘惑から奪い返すために、罪の呪いから救うために、神のいのちという代価を支払って贖ってくださった!

何度でも、十字架に戻る。
十字架の愛を体験すればするほど、「人前で神を知らないなんて言わなくなる」のです。

終わりに

今日のポイントは

「どうやって、他人の目を恐れないほどに、神を愛することができるのか?」

それは、「妬むほど、あなたを愛している神様の愛を体験すること」

あなたのために十字架で死なれたイエス様の愛をたっぷりと体験することです。

あなたのことをどこまで、どれだけ愛しているか、あなたが何度も何度も知ることです。

そうすれば、大丈夫です。
自然と、人への恐れよりも、神のために生きる喜びで動かされる人生になるのです。

「こんな私さえ、見離さず、愛してくれる。その神の愛に応えたい」という思いが溢れるのです。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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