34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
聖書(マタイ10:34-42)
35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
はじめに
ガーデンチャーチを開拓してみて思ったことがあります。
それは、聖書から福音をちゃんと学べば、イエス様を信じる人は多いということ。
その段階で、信じませんという人は、もしかするといないかも知れません。
しかし、信じた後、洗礼を受ける時に壁を感じる人がいます。
「洗礼はちょっと待ってください」心の準備。
「僕なんかが洗礼を受けてもいいんでしょうか?」不足感。
「家族に言わないとダメですか?」家族の問題。
大体は大した問題ではないので、洗礼を受けることになります。
でも、洗礼を受けた瞬間に、心が変わり、不足感がなくなり、家族の問題が解決するかというとそうでもありません。
もちろん、クリスチャンになると、多くの問題が解決します。
神を体験し、180°変わる人もいます。
しかし、あなたが「変わったからこそ」今までなかった葛藤が生まれることがあります。
家族の宗教や信仰上の対立
お墓参りや葬式でどう振る舞うか?
仕事で妥協や不正を求められる時
過去の悪習慣や内面の罪との戦い
みなさん、クリスチャンになると解決する問題がある一方、新しい葛藤が生まれることを知ってください。
イエスは争いをもたらすために来た?
実は、今日の箇所で、イエス様も、弟子になると、葛藤が起こると明言しています。
34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
聖書(マタイ10:34)
誰もが、イエス様と言えば、「ロバに乗った平和の君」、優しいイメージがありますね。
でも、これはイエス様が実際に言った言葉です。
平和ではなく、剣をもたらすために来た。
どういう意味でしょうか?
これは、真の平和がもたらされるには、戦いや対立が避けられないという意味です。
戦いや対立のない平和は偽りの平和です。
偽りの平和は、表面的には問題がないように見えても、うちには矛盾があり、悪意があることもあります。
例えば、「みんな平等に、みんな自由に生きてください」と言っても、競争や貧富の差が生まれます。
いわゆる民主主義ですね。
では、共産主義、社会主義はどうでしょう?
競争を無くして、それこそ社会システムでみんな平等にします。
すると、なぜか独裁者が生まれる流れになってしまいます。
独裁者が戦争を望めば、平和が危ぶまれることになります。
つまり、「戦いや対立」のない平和は、逆に「戦いや対立」を生む構造になってしまうという皮肉もあるのです。
歴史を見れば、平和の前にはいつも戦いがありました。
しかし、人間のもたらす平和というのは、多くの場合、ある特定の家族や部族が他の家族や部族を支配することによってつくり出されます。
例えば、日本の歴史でいうと、戦国時代では、それぞれの国を治めていた家族があり、その家族が常に権力争いで戦争をしていました。
戦国時代では、最終的に関ケ原で勝利を得たのは徳川家とその側に付いた家です。
江戸時代というのは、徳川家とその側に付いた家が日本を治めた時代であり、その家の支配に反対することは許されなかったのです。
今でも、「何よりも家族を大切に」と考える人も多くいます。
どうしても、このような考え方はとても限られた、権力のある家族による「平和」をもたらすのです。
じゃあ、イエス様の言っている「真の平和がもたらされるには、「戦いや対立」が避けられない」というのは、どういう意味なのでしょう?
イエス様が言いたいのは、家族「よりも」大切なものがなければ、この世界は家族や部族の争いで終わってしまうという真理なのです。
真の平和というのは、全ての人間が、創造主である神を認め、神を一番にすることでもたらされるのです。
神を一番にすると、なぜ、平和になるのか?
まず、罪の基準が明確になります。「人それぞれの基準で生きましょう」という最近流行りの相対主義ではないので、何がいけないのかが分かりやすくなります。
しかも、聖書の罪とは、神と人を愛さない行為なので、神様を恐れる人は基本的に、平和を作り出そうとします。
分かりますか?
もし、私たちが自分自身や、自分の家族を優先すると、結局、強い特定の家族やグループが支配層に行くんです。
でも、神を優先すると、みんな神の前で謙遜になり、愛し合うことにベクトルを向けて生きていくんです。
むしろ、キリストの十字架の福音を信じている人たちは、キリストの血によって罪が赦され、血によって兄弟姉妹になりました。
だから、血縁の家族も大事ですが、新しい家族、血縁関係を超えた神の家族という考えによって、家族間の争いはなくなるのです。
では、ここでの「真の平和がもたらされるには、戦いや対立が避けられない」の「戦いや対立」は何なのでしょうか?
もちろん、これは、家族間の戦いや、戦争ではありません。
これは、「神を最優先にするために起こる戦いや対立」のことです。
世界中の全てがクリスチャンだったら、話は早いのですが、実際はそうではありません。
多くの場合、家族と家族以外には大きな境界線がひかれています。
自分と自分以外もそうです。
普通は、自分が大事、自分の家族が大事です。
クリスチャンもそうです。
でも、クリスチャンは、大切な自分と、愛する家族の前に、神様がきます。
何が違うかというと、優先順位が違うんです。
神様が造られた大切な自分と、神様が与えてくださった愛する家族という、神様から発進で物事を見るようになります。
なので、クリスチャンとそうでない人では、人生の優先順位が違うので、対立が起こるのです。
一番最初に起こるのは、家族間の対立です。
35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
聖書(マタイ10:35-36)
36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
「わたしは、…来たのです」とは、キリストが来たので、神を信じるものと、信じないものの対立がより明らかになるということです。
「逆らわせるため に」の動詞「ディカゾー」は、「2つ」 を表す「デュオ」から派生し、本来の意味は“2つにくっきりと分ける、区分する” です。
つまり、対立に焦点があるのではなく、人の反応が真っ二つに分かれると言うことです。
なので、イエス様を信じると、対立は必然的に起きますよということです。
神を優先する人は、日曜の礼拝を優先するので、家族からは「家族サービスは?」と嫌な顔されるかも知れません。
献金やお金の使い方、仕事の仕方、人生の価値観、時間の使い方など、やはり、ノンクリスチャンの家族とは対立するでしょう。
一番は、おそらく子育てです。
「子供の信仰はどうするのか?」ここで、意見が分かれるはずです。
クリスチャンの夫婦なら、全く対立せずに、教会に連れてくるでしょう。
子供に選ばせると言って、両親は礼拝に、子供だけどこかに預けるなんて夫婦見たことないですし、それはやりすぎです。
じゃあ、家族と対立が起こった時、どうすれば良いのか?
イエス様は答えています。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
聖書(マタイ10:37)
どうでしょう?
やはり、イエス様は優先順位の話をしています。
神>家族
とはっきりと優先順位を示しています。
いいですか?
家族を愛するなとも書いていないし、家族を捨てろとも書いていません。
これは、優先順位の話です。
家族を100%愛していいんです。神様も100%愛していいんです。
でも、どっちか選ばないといけない時は、神様を優先するということです。
ただそれだけです。
なぜなら、神様を優先したら、あなたの家族は祝福されるからです。
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
聖書(使徒16:31)
この使徒の働きの箇所は、優先順位を話していますよね?
まず、あなたが信じること。そうすれば次に家族です。ということです。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
聖書(マタイ6:33)
ここでも、優先順位を話しています。
どちらの箇所も「そうすれば」とAの条件が満たされれば、Bという形になっています。
順番が大事だということです。
最初の平和と戦いの話でいえば、全ての人が自分の家族よりも、神様を優先すれば、結果として、家族間の戦いはなくなり、みんな平和になります。
結果、家族の中も平和になります。
これが真の平和です。
真の平和は神が治められる時に訪れるのです。
イエス様は、優先順位をもう少し踏み込みます。
38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
聖書(マタイ10:38-39)
39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
これは、どういうことかというと、
神>家族&自分
という意味です。
十字架は、死を意味します、
つまり、自分の十字架を背負って、イエスに付いていくとは、神と人々のために自分を捧げる生き方だということです。
これも優先順位の話です。
だから、正確には、
神>家族>自分
となります。
なぜ、家族の方が自分よりも大事なのか?
まず、あなたが生まれた時、家族は存在していたからです。
母親があなたを産みました。父親がいれば三人家族。いなくても、親子で二人。
あなたが親を生み出したのではなく、あなたは家族の一員として誕生しているのです。
家族がなければ、あなたは存在しません。
また、人は一人では生きていけません。
友達がいなくても、家族という最小限のコミュニティで人間は、愛され、学び、育てられます。
もちろん、これは、神と家族のために、なんでも従って、自分をなくせという意味ではありません。
神と家族を大事にする人は、自分を大事にします。
なぜなら、大事な神に愛され、守れられているのが自分です。
大事な家族に育てられ、愛されているのが自分です。
だから、自分を価値のある存在とわかり、自己肯定感を持って、神と家族のために、愛を持って自分を捧げられるのです。
終わりに
今日の箇所で、イエス様は、弟子になると、葛藤が起こると明言されました。
キリストの弟子の葛藤とは、「神を最優先にするために起こる戦いや対立」のことです。
なぜ、神を最優先にする必要があるのか?
神を最終戦した時に、家族も、自分も幸せになるからです。
今日2つのことを考えてみましょう。
①信仰の対立が起こっているか?
その葛藤は弟子の証拠です。
葛藤は優先順位を守るための戦いです。
むしろ、対立や争いがなければ逆に要注意かもしれません。
家族の理解があっきり、クリスチャンの家族であれば感謝でしょう。
でも、もし、優先順位がずれていて、葛藤がないなら、要注意です。
②優先順位を見直そう。
神>家族>自分
この優先順位であれば、逆に自分を大事にできます。
もし、人生のバランスが崩れ、疲れや、むなしさがあるなら、それは自分を優先しているからかもれません。
自分を神と家族よりも優先している限り、あなたは燃え尽きます。
あなたを生み出したものを大切にせず、矛盾しているからです。
むしろ、神と家族を優先すると、歯車が噛み合います。
人は、誰かもために生きると人生にハリが生まれます。